武田氏ゆかりの像
韋駄天立像
いだてんりゅうぞう
両手で合掌し、兜をかぶる韋駄天立像。禅宗寺院の厨房に安置されることが多い。兜内部に記された銘により、武田氏縁の像と考えられる。
「信仰の足跡」に展示中
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春だ!ぶちかませ!!
砲弾
ほうだん
柏尾の戦いに際し、幕府軍が新政府軍に打ち込んだ不発弾であるという。1859年にフランスで開発された野戦砲「四斤山砲」の砲弾と同形である。日本では慶応2年(1866)の第二次長州征討に際して幕府陸軍が使用したことが知られており、明治に至るまで陸軍の主力装備の1つであった。
「転換期に向き合う」に展示中
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武田信玄に仕える家臣団のすがた!
武田二十四将図
たけだにじゅうししょうず
最も古い作例のひとつと考えられている、丹絵(墨で摺った輪郭線だけの版画に手彩色で色を加えたもの)の武田二十四将図。信玄は画面上部中央に、その下に23名の武田家家臣の姿が、軍議を行っているかのように描かれている。江戸時代前期に役者絵を始めた鳥居派の祖、初代鳥居清信(1664〜1729)による作例と考えられている。
※令和3年3月17日(水)から4月12日(月)までの限定展示
「江戸文化の往来」に展示中
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甲越武勇伝大膳大夫晴信入道信玄
こうえつぶゆうでん だいぜんたゆうはるのぶにゅうどうしんげん
甲越武勇伝とは、甲軍が20名、越軍が20名の計40名の武将からなる揃い物で、もともとは絵双紙に仕立てられていた。各自の武勇伝が上部に記されるとともに、甲冑姿の全身像が表されている。信玄の嫡子である武田太郎義信や武田左馬之助信繁など、武田二十四将図には通常みられない人物も描かれている点が特徴である。作者の歌川芳勝(生没年未詳)は幕府の醤油御用達をしていたが、後に歌川国芳(1797〜1861)の門人となった。
※令和3年2月17日(水)〜3月15日(月) までの限定展示
「江戸文化の往来」に展示中
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甲越武勇伝山本勘助晴幸入道道鬼斎
こうえつぶゆうでんやまもとかんすけはるゆきにゅうどうどうきざい
甲越武勇伝とは、甲軍が20名、越軍が20名の計40名の武将からなる揃い物で、もともとは絵双紙に仕立てられていた。各自の武勇伝が上部に記されるとともに、甲冑姿の全身像が表されている。題名の「道鬼」とは、勘助が出家後、法名として名乗った名である。
※令和3年3月17日(水)から4月12日(月)までの限定展示
「江戸文化の往来」に展示中
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山梨の春のお祭り、御幸祭!
甲山峡水
こうざんきょうすい
山梨県の名所を紹介する観光ガイドブック。中央線甲府開業を機に企画され、明治39年(1906)に開催された一府九県連合共進会の際に刊行された。富士山、屏風岩、猿橋、昇仙峡、御幸祭などが挿絵で紹介されている。
「変貌する景観」に展示中
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