山梨県立博物館 かいじあむ
博物館収蔵の資料をデータベースから検索 収蔵資料案内
topに戻る
 
かいじあむとは
活動紹介
利用案内
施設案内
展示案内
交通案内
イベント案内
富士山
お楽しみ資料
キッズミュージアム
教職員の方へ
グループ・団体の皆様へ
 
展示案内

16 巨富を動かす

 
「戦国からのメッセージ」展示室写真
 幕末期に生糸取引で活躍した甲州屋忠右衛門や、のちに甲州財閥として巨富を動かした若尾逸平らの人物像に迫り、甲州から出発した彼らの旺盛な行動力や積極性について紹介します。
  また、甲州財閥の行った電気や鉄道をはじめとした町の基盤づくり事業が、現在の私たちのくらしに生きていることを紹介し、日本や山梨の近代化における彼らの事業の意義を明らかにします。

展示資料
 
資料名
時代
所有
指定
資料解説
明治元年道中諸入用控帳(篠原家文書) 明治元年
(1868)
山梨県立博物館   篠原忠右衛門の息子である正次郎が甲州から横浜・横須賀・江の島など相州方面へ出掛けた際の金銭出納簿。本資料によれば、正次郎は3泊4日の行程で横浜・甲州屋に到着している。
東京より甲府迄の道中他諸費明細(太田家文書) 明治20〜30年代 山梨県立博物館   東京と甲府の間の道中の費用を記したもの。往路は新宿から甲武鉄道で八王子まで行き、以後は馬車を乗り継いで甲府まで至っている一方で、復路は富士川水運で岩淵まで出て、東海道線で帰京していることが分かる。明治中頃(東海道線開通後、中央線開通前)においては、復路(甲府から東京に向けての旅)に関しては、富士川水運・東海道線回りが最速だったことが分かる資料。
山梨鉄道起業意見書(甲州文庫) 明治22年
(1889)
山梨県立博物館   雨宮敬次郎による東京・山梨間の鉄道敷設意見書。雨宮は自ら経営する甲武鉄道(現在のJR中央線新宿・八王子間)に接続する山梨鉄道案を提唱し、御殿場から甲府盆地へ延ばす甲信鉄道計画と比較して、当初の建設費が高くとも、地域経済的には、東京と山梨を最短距離で結ぶ甲武鉄道が有利であることを説いている。
中央東線鉄道線路概況(甲州文庫) 明治36年
(1903)
山梨県立博物館   明治36年6月11日の中央線甲府開業と同時に刊行されたパンフレット。甲府以東の各駅の状況のほか、笹子隧道をはじめとした諸施設の諸元や整備状況、若尾逸平ら名士が詰めかけた笹子隧道開通記念をはじめとした写真を収録している。
中央線電化記念写真帖(甲州文庫) 昭和6年
(1931)
山梨県立博物館   中央線が甲府まで電化した際に刊行された写真帳。急勾配が連続し、全長約4.6kmの笹子隧道をはじめとして、長大トンネルが多い中央線は、無煙化(蒸気からディーゼルや電気への動力転換)と輸送力改善が早くから大きな課題となっていた。そのため、中央線の甲府以東は、戦前の比較的早い時期に実現に結び付いた。
甲府駅発車時間表(三井家文書) 昭和4年
(1929)
山梨県立博物館   電化直前の甲府駅の時刻表(時間表)。全通直後の富士身延鉄道(身延線)の静岡方面への発車時刻を左に、中央線の上下の時刻を右に表しており、中央線の上り下りを足した本数と身延線の上りの本数がほぼ同じであることがわかる。また、中央線下りには現在は存在しない中央東線と西線を直通する「名古屋行」を見ることが出来る。
若尾逸平ミニチュア 明治〜大正時代 山梨県立博物館   甲府市愛宕山に若尾の米寿記念に建てられた寿像(写真小川一眞、原型河村嘉祥、鋳造漆原新七 『若尾逸平』より。現存せず。南アルプス市に再建銅像が所在。)と同様のミニチュア。像からも小柄な老人であること、右足を踏み出すポーズから、溢れ出る行動力が想起される。明治40年(1907)の銅像建設時、あるいは大正時代の若尾公園の造営時の記念品であろうか。


戻る


サイトマップ リンク
ご意見・ご感想 このサイトについて 個人情報保護方針