資料名 |
時代 |
所有 |
指定 |
資料解説 |
| 躑躅ヶ崎館跡出土陶磁器 |
戦国時代 |
甲府市教育委員会 |
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武田信玄の館跡である躑躅ケ崎館からは、中国や朝鮮半島で生産された陶磁器がたくさん発見されている。 |
| 渥美短頸壺 |
平安時代(12世紀) |
山梨県立博物館 |
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南部町の篠井山頂から発見された。渥美半島の大アラコ古窯で生産され、海上輸送された後、富士川をさかのぼり、富士山麓から山頂が一望できる埋経の地にもたらされたものであろう。 |
| 中国銭貨 |
室町時代 |
大月市(個人) |
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中世の甲斐国では、中国銭が流通していたことがわかる。 |
| 一宮町東原 常滑甕 |
鎌倉時代 |
山梨県立博物館 |
○ |
中世には常滑や瀬戸で焼かれた陶器が甲斐の地に流通している。 |
| 瀬戸瓶 |
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山梨県立博物館 |
○ |
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| 海を渡った陶磁器 (大甕・染付・灰釉皿) |
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個人蔵 |
○ |
中国からもたらされた染付や青磁の陶磁器。東アジアと日本の流通を物語る資料。 |
| 御朱印御用木札(南松院資料) |
江戸時代 |
南松院蔵 |
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南松院が徳川将軍家に年始の挨拶などに参上した際、使用した荷札。 |
| 甲州南松院木札(南松院資料) |
江戸時代 |
南松院蔵 |
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南松院が水戸徳川家に年始の挨拶などに参上した際、門番に示した手札。 |
| 水戸御用旗(南松院資料) |
江戸時代 |
南松院蔵 |
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南松院が水戸徳川家に年始の挨拶などに参上した際、使用した旗。 |
| 水戸様御由緒筆記(南松院資料) |
江戸時代(19世紀) |
南松院蔵 |
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武田家の名跡とともに穴山家の領地と家臣を継承した武田信吉(徳川家康の五男)に始まる南松院と水戸徳川家との関係を記した記録。南松院が江戸の水戸藩邸に年始の挨拶をする際、水戸徳川家からは時服、南松院からは甲斐国産の梨・葡萄・柿が贈られたという。 |
| 水戸前中納言烈公様御逝去納経記録(南松院資料) |
万延元年(1860) |
南松院蔵 |
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水戸藩前藩主徳川斉昭(徳川慶喜の父)の死去に際して、南松院(身延町)、円蔵院(南部町)が大乗妙典(法華経)を納経するため、東海道を通り江戸の水戸藩邸に向かった記録。 |
| 疫病退散に付差紙 |
安政5年(1858) |
山梨県立博物館 |
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コレラが猛威をふるった8月に甲府代官所から発せられた令状。疫病神が去らなければ牛頭天王の兵が征伐すると書かれている。 |
| 暴潟病薬方書 |
安政5年(1858) |
山梨県立博物館 |
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コレラへの対処法や薬を説いた刷り物。 |
| 安政五年午八月朔日より同下旬まで 流行病にて死失の者並煩居候者取調帳 |
安政5年(1858) |
山梨県立博物館 |
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安政5年8月における甲府城下各町のコレラによる死者数の書き上げ。男性130人、女性123人、合計253人の死者があった。 |
| 暴潟病療治方町触写 |
安政5年(1858) |
山梨県立博物館 |
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西青沼村(甲府市青沼)における暴潟病に関する触書の綴り。巻末に当時流布した書物の写しがあり、コレラに関する狂歌や、医者、悪病除けのヤツデの葉のイラストが見られる。 |
| 市川村暴潟病流行日記 |
安政5年(1858) |
山梨県立博物館 |
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市川村(山梨市市川)の名主が、コレラ流行時の状況を記した日記。江戸で流行したコレラが八王子を経て甲府城下に入ってくる緊迫した空気が伝わってくる。村人が様々な祭礼を執り行い、神仏に祈って悪霊を退散させようとした様子も記されている。 |
| 明治19年山梨県虎列刺病流行記事 |
明治19年(1886) |
山梨県立博物館 |
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明治に入ってもコレラは何度も流行したが、明治19年は特に被害が大きかった。本資料によれば、山梨県でも6月から10月にかけて千人近い死者が出ている。 |
| ニホンオオカミ頭骨 |
江戸時代〜明治時代 |
個人 |
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笛吹市御坂町の個人宅に伝わった。鼻を中心に皮や筋肉がミイラ状に残る点が珍しい。憑き物落としに用いる風習が伝わった結果残されたと考えられる。 |
| 神犬御札 |
現代 |
個人 |
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関東山地周辺の秩父地方、奥多摩地方に御犬様(オオカミ)を御眷属(神の使い)とする神社が多く分布する。御眷属信仰は山間部における害獣除けから広まり、江戸市中に広がると火事や泥棒除けにもご利益ありとされた。 |
| 木喰作 弘法大師坐像 |
寛政13年(1801) |
山梨県立博物館 |
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手に数珠をもつ弘法大師・空海の像。木喰生誕地・丸畑(現南巨摩郡身延町)の「四国堂」に安置されていた。 |