山梨県立博物館 かいじあむ
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12 道がつなぐ出会い

 
「戦国からのメッセージ」展示室写真
 甲斐国の街道と脇往還を紹介し、さまざまな道や峠を越えて往来していた多様な人々の旅の様子や、モノの交流の様子を知り、鉄道以前の陸路の果たした役割を考えます。

展示資料
資料名
時代
所有
指定
資料解説
新巻常滑大甕 室町時代 個人蔵
昭和8年(1933)、笛吹市一宮町新巻で発見された室町時代の常滑大甕。大甕の中には、国内産の陶器とともに、14-15世紀に製作された中国製の陶磁器が納められていた。
遠く海を渡ってきたこれらの陶磁器は、当時の有力者が国内にとどまらず、はるか大陸の製品を求め、流通していたことを示している。
海を渡った陶磁器 (青磁・染付・灰釉皿) 室町時代 個人蔵
駒橋出土埋蔵銭 室町時代 個人蔵   中世の甲斐国では、中国銭が流通していたことがわかる。
躑躅ヶ崎館跡出土陶磁器 室町時代 甲府市教育委員会蔵   武田信玄の館跡である躑躅ケ崎館からは、中国や朝鮮半島で生産された陶磁器がたくさん発見されている。
渥美短頸壺 平安時代
(12世紀)
個人蔵
南部町の篠井山頂から発見された。渥美半島の大アラコ古窯で生産され、海上輸送された後、富士川をさかのぼり、富士山麓から山頂が一望できる埋経の地にもたらされたものであろう。
東原古瀬戸瓶 鎌倉時代 山梨県立博物館
南部町の篠井山頂から発見された。渥美半島の大アラコ古窯で生産され、海上輸送された後、富士川をさかのぼり、富士山麓から山頂が一望できる埋経の地にもたらされたものであろう。
東原常滑大甕 鎌倉時代 山梨県立博物館
鎌倉から室町時代にかけての国内産の陶磁器は、おもに渥美、常滑、瀬戸などの生産地からの製品が甲斐国内に流通していた。本資料のような大型の製品は、陸路よりも水運で輸送されたと考えられる。
五月節供人形(坂本家資料) 昭和17年(1942) 個人   昭和17年に贈られた雛人形。飾りは塗の鎧櫃に納めた具足を中心とし、座敷幟や陣屋提灯、陣太鼓、陣羽織、陣扇、采配などを備え、白木に胡粉の装飾を施した三宝と素焼きの瓶子、紙製の神酒口(菖蒲)・粽・柏餅などが付属する。各飾りの内箱の側面には「日本玩具統制協会」のシールが貼られている。戦時体制下においては、金属使用が禁じられた。
今川義元判物(森家資料) 天文21年
(1552)
個人   駿河今川氏の当主義元が森彦左衛門尉に対し、「先年乱中」での河舟奉公の恩賞として、駿河内房郷橋上村(静岡県富士宮市)にかかる棟別役やその他の諸役の免除を認めた古文書。今川氏が天文6年(1537)に武田氏と同盟を結ぶと、これに反発した相模北条氏が駿河東部に侵攻、「河東一乱」と呼ばれる戦闘状態が長く続いたが、天文14年に信玄の仲介によって和議が成立した。
穴山信君判物(森家資料) 天正4年(1576) 個人   武田氏一門の穴山信君が、駿河初鹿見(橋上)の森彦左衛門や船方衆に対し、筏の奉公を勤めた見返りとして税の免除を認めた古文書。富士川において戦国時代から筏による材木運搬が行われていたとみられる。信君は天正3年の長篠合戦後に駿河江尻城(静岡市清水区)代に任じられ、駿河支配にも関与している。
穴山信君朱印状(森家資料) 天正8年(1580) 個人   駿河江尻城代の穴山信君が、駿河国内房郷(現在の静岡県富士宮市)の森彦左衛門らに、「もちり」漁による奉公を命じたもの。「もちり(もじり)」とは、竹で円錐型に編んだ筒状の仕掛けを使ってウナギやアユなどを獲る漁法で、富士川流域で盛んにおこなわれていた。
もじり 昭和 山梨県立博物館   河川において、アユやウナギを獲るために用いられた竹製の漁具。魚が川の深い所に集まろうとする性質を利用し、川の底に固定して仕掛けて魚が入るのを待つ。魚は太い方の口から中に入るが、内部には「かえし」が付けられているため、外に出ることができない。細い方の口に付けられた留め具を外して口を開けば、中の魚を取り出すことができる。


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