山梨県立博物館 かいじあむ
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9 城下町の賑わい

 
「戦国からのメッセージ」展示室写真
城下町の成り立ちや役割を理解するために、甲府城築城の目的や甲府城下町の都市計画を紹介します。また、城下町で営まれた武家や町人の生活を紹介します。

展示資料
資料名
時代
所有
指定
資料解説
甲府城下町絵図(グラフィック 柳沢文庫) 江戸時代 (原資料 柳沢文庫)   柳沢吉保・吉里が治めている頃(1705〜1734)の甲府城下町を描いた絵図。
『信玄軍談記』(古文書雑輯(2)) 延宝3年(1675) 山梨県立博物館   武田家滅亡の過程を描いた軍記物。信玄没後の天正10(1582)年、木曽義昌の離反から始まり、織田信長による信濃・甲斐平定戦と武田家の滅亡の経緯が描かれている。筆者は春日惣次郎(高坂昌信)とされるが定かではない。文中の各所で信玄の遺徳がたたえられており、信玄時代を理想化する見方がすでに17世紀後半に存在していたことがわかる。登場しない信玄を表題に冠するのもそのためであろうか。
『絵本英雄部類』(甲州文庫) 弘化3年(1846) 山梨県立博物館   戯作者として知られる松亭金水による軍記物。内題には「甲越軍士評判記」・「甲越武者評判記」などとあり、いくつかの版本の端本が合綴されたものらしい。川中島合戦で活躍した智謀・武勇の士について、その功績にランクをつけて論じており、特に功績のあった者として、武田方では山本勘介、佐奈多一徳斎(真田幸隆)、高坂弾正(昌信)、原美濃守(虎胤)、上杉方では宇佐美駿河守(定満)、本城越前守(本庄繁長)らの名前が挙がっている。展示箇所は「信玄雪中出陣之図」。中央で頭巾をかぶり、馬に乗っているのが信玄であろう。
『絵本烈戦功記』(頼生文庫) 嘉永5年(1852) 山梨県立博物館   小沢東陽(種春)による軍記物。武田氏・上杉氏の戦闘を中心に描き。永禄4年の川中島の戦いから、武蔵松山城や上野松井田城の攻防戦などを描き、永禄12年に今川氏を追って武田氏が駿河を占領し、北条氏と対立を深めるところまで扱っている。それぞれの戦争について経緯・展開を記したうえで、論評を加えるスタンスをとっている。筆者の小沢東陽は、その著書『教訓童草』で作り話に対する否定的な態度を示しており、本書も様々な書物を引用しながら、作り話を作り話として楽しむ態度によって作成されている。
『甲越古状揃大全』(甲州文庫) 嘉永4年(1851) 山梨県立博物館   武田信玄・上杉謙信らがやり取りしたとする書状を用いて、読み書きの練習ができるように作られた往来物と呼ばれる教科書。ただしその内容の多くは創作されたものである。信玄の誕生祝いに対する武田信虎の礼状に始まり、上杉謙信が将軍足利義輝に武田信玄・北条氏政の討伐を願い出る注進状まで、19通の書状により基本的な文字のくずし方や読みを学ぶことができる。展示箇所は著名な一騎打ちの場面を描いた挿絵。
武田信玄朱印状の有無につき乍恐以書付奉申上候(西保下村武藤家文書) 江戸時代(19世紀) 山梨県立博物館   西保下村(現山梨市)の名主・長百姓たちが、村内に武田信玄の朱印状があるかどうかを甲府代官所に報告したもの。このとき、甲府代官所は管内の村々に同様の調査を行ったものと考えられる。西保下村では、長百姓の伝左衛門が朱印状を所持していたが、先年領主に提出してしまい、それ以外に村内には武田家の朱印状は存在しないと回答している。一般に領主が替わると、元の領主の出した命令書は回収され、廃棄されるため、村方にはほとんど残らなかった。
武田信玄寄進の鎧につき照会状(坂名井家資料) 江戸時代(19世紀) 個人蔵(当館寄託)   鳥取藩池田家の家臣から、甲斐国二宮の美和神社の神主に対し、武田信玄が寄進した鎧や兜があるかどうかを尋ねた書状。もしあれば、実寸大の絵図にして送ってくれるように依頼している。また他にも由緒のある武具があれば絵図を送ってほしいという。美和神社には武田信玄の元服鎧と伝える「朱札紅糸素懸威胴丸佩楯付」が伝存しており、本資料が指しているのもその鎧のことであろう。本資料の時期は特定できないが、松平定信の『集古十種』編集以降、19世紀には領主階級を中心に古物に対する関心が高まっていた。
甲州村々浪人共人別帳(甲州文庫) 天保2年(1831) 山梨県立博物館   吉川栄左衛門・大貫次右衛門・野村彦右衛門らの代官所内に居住する武田浪人45名の由緒をまとめたもの。もともと武田家に仕えていた武士であったが、武田家滅亡などを契機として村落に定住することを選び、江戸時代になっても有力者として村内に強い影響力を持ち続けた人々を武田浪人と呼ぶ。本資料は、おそらく幕府の命によって村に居住する武田浪人の状況を調べてまとめた報告書であり、領主にとっても武田浪人はその状況を把握しておきたい存在であったことがわかる。
甲州浪人仲間異国船渡来御奉公方願書(甲州文庫) 嘉永7年(1854) 山梨県立博物館   甲斐国内の清水家領に居住する武田浪人らが、外国船の警戒のため、沿岸の警備にあたらせてほしいと願い出たもの。この前年、アメリカの東インド艦隊を率いてペリーが来航したことをうけ、幕府は沿岸防備を固める指示を大名などに対して出していた。武田浪人たちはかねてから身分相応の「御奉公」をしたいと幕府に願い出ていたが、「追々相応之御用」があるであろう、と断られていた。そうした武田浪人たちにとって、未曾有の国難は、軍事的な「奉公」によって自分たちの身分を確認するチャンスと映ったのだろう。
海岸筋警衛につき乍恐以書付奉願上候(甲州文庫) 嘉永7年(1854) 山梨県立博物館   山梨・八代・巨摩の三郡に住む武田浪人たちが、沿岸の警備にあたらせてほしいと願い出た願書の文案。これによれば、武田浪人は当初200人あまりいたが、徐々に減少して、幕末時点で40人ほどになっていたという。外国船が沿岸に出没するようになり、全国各地の海岸を守るため、警備にあたらなければならないと主張し、「微力之身分」、「大海之一滴」と謙遜しながらも、海岸防備の役を与えてほしいと願い出ている。
『誠忠旧家録』(甲州文庫) 江戸時代(19世紀) 山梨県立博物館   武田浪人のリスト。その一部の由緒も記している。本資料を編纂したのは加賀美光遠なる人物であるが、平安時代の武将加賀美遠光をもじったペンネームと考えられ、その17世の子孫と称しているが、詳細は不明である。また本資料の刊行年代は未詳だが、同一名称の刊本が天保3(1832)年に刊行されていることが確認できるため、それ以降に刊行されたものと考えられる。武田浪人同士のつながりは強く、人々はこうした書物を通じてその結束を確認したのであろう。
武田家旧臣末裔調査出版につき書付(赤岡重樹旧蔵資料) 安政4年(1857) 山梨県立博物館   武藤大学なる人物が、武田家の旧臣3100人あまりの由緒を詳しく調べ、リストにしたものを刊行したいと通知したもの。「東照大神君(徳川家康)」や将軍の命令を指す「上意」などの語句が仰々しく書かれている(台頭)のが目を引く。あくまで趣旨は武田浪人のリスト化であるはずだが、ここではかつて武田家に仕え、今は幕府や諸大名に仕えている武士たちも調査の対象としている。武田浪人たちが、自分たちのアイデンティティを求めて様々に模索している姿がうかがえる。
武田学校設立之大意(甲州文庫) 明治19年(1886) 山梨県立博物館   武田信民が、「武田学校」設立の寄附を募ったもの。信民は武田信玄の弟信実の子孫といい、「国恩ニ報シ」「遠祖(信玄)ノ意志ヲ後世ニ継嗣スル」ために「武田学校」を設置したいという。また「善師ヲ聘シ大ヒニ泰西(欧米)ノ文学ヲ講シ」と、主な教育内容として西洋文学を挙げている。裏面には本資料の発行時点での寄附者として加藤源六郎、高室昌平らの名前が掲載されている。「武田学校」が設立されたかどうかは定かではないが、こうした形でも信玄の名前が利用されていたのであった。
甲府上水木樋   甲府市水道局   木製の上水管。甲府城下町では全国的にも早い時期に上水網の整備がなされ、先進的な都市づくりが進められていた。
甲府城跡出土鯱瓦(復元品)   山梨県立考古博物館   創建当時の甲府城にあった金箔付きの鯱瓦を復元したもの。
『絵本信玄一代記』(甲州文庫)

寛政2年(1790)

山梨県立博物館   武田信玄の生涯を絵入りで紹介した草双紙。作者は春秋舎荻声なる人物とみられるが、この作品以外に名前が見当たらず、詳細は不明である。挿絵は江戸時代中期を代表する浮世絵師である北尾重政。信玄の幼少期から亡くなるまでを、上杉謙信との戦いを中心に描いている。話の筋は『甲陽軍鑑』などの軍記物を踏襲したものであり、独自性はほとんどみられない。展示箇所はいずれも有名な信玄の逸話を描いたものである。


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