資料名 |
時代 |
所有 |
指定 |
資料解説 |
甲府城下町絵図(グラフィック 柳沢文庫) |
江戸時代 |
(原資料 柳沢文庫) |
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柳沢吉保・吉里が治めている頃(1705〜1734)の甲府城下町を描いた絵図。 |
武田晴信信玄像模本(甲州文庫) |
明治5年(1872) |
山梨県立博物館 |
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武田信玄の弟であった逍遥軒信連(武田信廉)が描いた信玄の像を、安政4(1857)年に安富元実が模写し、さらにそれを狩野雅信が模写したものという。 |
『川中島両将軍記』 上・中・下(甲州文庫) |
慶応2年(1866) |
山梨県立博物館 |
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川中島の戦いと、そこに至るまでの武田家の動向を描いた絵本。岳亭定岡作、挿絵は岳亭と歌川芳盛。岳亭定岡は葛飾北斎の弟子であり、画家としても知られている。 |
『川中島烈戦記』(甲州文庫) |
明治25年(1892) |
山梨県立博物館 |
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川中島の戦いを描いた絵本。作者は荒川(山口屋)藤兵衛。藤兵衛は江戸の地本問屋の主で、錦絵の版元として有名だが、自ら著作も残している。 |
差上申一札之事(万福寺・恵林寺内済につき)(甲州文庫) |
明和7年(1770) |
山梨県立博物館 |
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前年に恵林寺で行われた武田信玄の二百回忌の法会において、待遇に不満を持った万福寺が恵林寺を訴え、寺社奉行土岐定経の仲裁により和解したときの史料。 |
口上覚(信玄公二百五十年遠忌につき、甲州文庫) |
文化15年(1818) |
山梨県立博物館 |
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恵林寺の前住職であった義堂が、武田信玄二百五十回忌の法要を営むために寄付を募った際の口上を記したもの。 |
信玄公三百年遠忌化縁簿(甲州文庫) |
明治4年(1871) |
山梨県立博物館 |
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恵林寺が、翌明治5年4月に開催する予定の武田信玄三百回忌の法要のために寄付を呼びかけたもの。 |
差出シ申一札之事(山宮祭礼での暴力事件につき詫状、古屋家文書) |
明和3年(1766) |
山梨県立博物館 |
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3月1日、山宮神社(現笛吹市一宮町)の祭礼において、酒に酔って暴力沙汰を起こした藤井村の伝左衛門が、仲介者の政右衛門らとともに、被害者の大塚村仙左衛門に宛てた詫び状。 |
差上申詫一札之事(酒酔い不埒の儀につき詫状、甲州文庫) |
嘉永7年(1854) |
山梨県立博物館 |
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川合村(現上野原市)の庄助が酒に「熟酔」して同村の修平宅に乗り込み、「不埒之義」を働いたことに対する詫び状。 |
差出申一札之事(酒酔いのうえ悪口乱妨につき詫状、渡邊家文書) |
文久元年(1861) |
山梨県立博物館 |
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6月、幾右衛門・耕助ら兄弟の田植えの手伝いに参加していた新六が、酒に酔って暴れ、幾右衛門に怪我を負わせたことに対する詫び状。 |
御幸相延候覚書(坂名井家資料) |
宝永元年(1704) |
山梨県立博物館 |
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宝永元年4月18日の御幸祭について、将軍徳川綱吉の長女で、紀州藩主徳川綱教の正室であった鶴姫が12日に亡くなったことをうけ、予定通り実施すべきか、延期すべきかを議論した記録。 |
「当国三社神幸由緒書」(坂名井家資料) |
天明6年(1786) |
山梨県立博物館 |
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御幸祭の由来などを記した史料。祭礼の起源を古代とし、それが武田家以来様々に整備されてきたと述べている。 |
「甲斐国二之宮神前由緒書」(坂名井家資料) |
天保5年(1834) |
山梨県立博物館 |
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甲斐国二宮美和神社とその祭礼について記した史料。美和神社の来歴や所領、歴代将軍から拝領した朱印状の写しなどを記したうえで、75ある年中行事のなかで最も重要なものとして御幸祭を位置づけている。 |
人質曲輪出土桐文様瓦 |
豊臣政権期
(16世紀) |
山梨県立考古博物館 |
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豊臣家の五三桐紋をかたどった瓦。秀吉が直接築城に関わった姫路城や大坂城から出土したものと類似する特徴を備えており、甲府城が豊臣政権から重視されていたことがわかる |
甲府上水木樋 |
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甲府市水道局 |
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木製の上水管。甲府城下町では全国的にも早い時期に上水網の整備がなされ、先進的な都市づくりが進められていた。 |
甲府城跡出土鯱瓦(復元品) |
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山梨県立考古博物館 |
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創建当時の甲府城にあった金箔付きの鯱瓦を復元したもの。 |
稲荷曲輪出土瓦 |
豊臣政権期
(16世紀) |
山梨県立考古博物館 |
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浅野家の違鷹羽紋をかたどった瓦。浅野長政・幸長父子は文禄3年(1594)から甲斐国を支配し、甲府城の整備を行った。 |
本丸出土花菱紋瓦 |
江戸時代
(18世紀) |
山梨県立考古博物館 |
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柳沢家の花菱紋をかたどった瓦。柳沢吉保は宝永元年(1704)に甲府城と甲斐国の国中三郡を拝領し、甲府城の修復・再編を行った。 |
輪宝 |
江戸時代
(17世紀) |
山梨県立考古博物館 |
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甲府城跡の稲荷櫓台から出土したもの。寛文年間の甲府徳川家による甲府城修復の際、地鎮具として埋納されたと考えられている。 |