資料名 |
時代 |
所有 |
指定 |
資料解説 |
| 武田晴信像(複製) |
室町時代(16世紀) |
山梨県立博物館 |
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高野山における甲斐国の宿坊であった持明院に伝わる武田晴信(信玄)の肖像画。 |
| 武田信玄自筆書状 |
元亀元年か(1570) |
山梨県立博物館 |
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武田信玄から春日虎綱へ発給された自筆書状。上杉輝虎の沼田での動向に関連した、武田信玄と信濃国・上野国の国衆の軍事行動について記されている。 |
| 武田晴信自筆書状 |
戦国時代(16世紀) |
個人蔵 |
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武田晴信(信玄)が小笠原氏の人物に出した自筆とみられる書状。文字は判読できないなところが多く、内容を正確に把握することが難しいが、晴信と「若衆方」との関係について言及したものと考えられる。 |
| 武門便幼 |
宝暦7年(1757) |
山梨県立博物館 |
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『甲陽軍鑑』などを素材として、武田氏家臣の活躍に関する部分を絵巻風に描いたもので、幼年者向けに武道の心得を説くものとして作られた。全三巻の上巻冒頭には、武田二十四将図が描かれる。信玄とその家臣団は、江戸時代には主従の理想像と考えられていたのだろう。 |
| 関東下知状(複製) |
応長元年
(1311) |
山梨県立博物館(原資料:大善寺) |
原資料
○ |
焼失した大善寺の古文書を確認するため、鎌倉幕府が深沢郷(甲州市)の地頭である逸見氏、武田氏、野呂氏に尋問し、執権金沢貞顕が改めて寺の運営を承認した古文書。 |
| 『長寛勘文』写本(複製) |
江戸時代
(17世紀) |
山梨県立博物館(原資料:熊野神社) |
原資料
◇ |
三枝守政による八代荘乱入をめぐって争われた熊野社と甲斐守藤原忠重との裁判に関する勘文(意見書)をまとめたもの。裁判では、熊野社と伊勢神宮の祭神が同体であるかが問題となり、熊野社による八代荘支配が認められ、忠重ほかが処罰された。 |
| 銅製経筒及び付属品(複製) |
建久8年
(1197) |
山梨県立博物館(原資料:個人蔵) |
原資料
○ |
江戸時代に秋山経塚(南アルプス市)から発見された経筒ほか。源光経一族が施主となり作成したもの。甲斐源氏の秋山光朝の供養のため奉納されたと考えられている。 |
| 『絵本信玄一代記』(甲州文庫) |
寛政2年(1790) |
山梨県立博物館 |
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武田信玄の生涯を絵入りで紹介した草双紙。作者は春秋舎荻声、挿絵は北尾重政。信玄の幼少期から亡くなるまでを、上杉謙信との戦いを中心に描いている。 |
| 足利義満御判御教書(市河家文書) |
応永10年(1403) |
山梨県立博物館 |
県 |
室町幕府三代将軍足利義満(1358?1408)が、市河刑部大輔入道(興仙・頼房)に対して、前月24日における合戦の功績を賞した感状。当時信濃は将軍家の御料国となっていたが、7月24日に反対勢力である村上満信・大井光矩ほかと壇原(檀原(まゆみはら)、長野市)で合戦となり、市河氏は幕府方に参陣した。 |
| 孫子の旗(復元品) |
室町時代 |
山梨県立博物館(原資料:恵林寺) |
原資料
○ |
武田信玄が戦陣で使用したと伝わる旗。古代中国の兵法書『孫子』の文言が記されており、「風林火山」で知られる。 |
| 諏訪神号旗(復元品) |
室町時代 |
山梨県立博物館(原資料:恵林寺) |
原資料
○ |
武田信玄が戦陣で使用したと伝わる旗。信玄が軍神である諏訪大社(長野県)を崇拝していたことがわかる。 |