山梨県立博物館 かいじあむ
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14 転換期に向き合う

 
「戦国からのメッセージ」展示室写真
 近世から近代への大きな転換期の中で発生したさまざまな騒動について、その発生から集結に至るまでの社会的・政治的背景を紹介します。また、騒動をとおして社会の変化や山梨の地域的特性などの問題を明らかにします。

展示資料
 
資料名
時代
所有
指定
資料解説
武田浪人報国岩窪の盟文(甲州文庫) 慶応4年(1868) 山梨県立博物館   武田浪人たちが、岩窪の信玄墓所に集い、天皇のために力を尽くすことを誓い合ったときの文案。ペリー来航に始まる国内の混乱を批判したうえで、大老井伊直弼による安政の大獄を、天皇を欺き庶民を偽る不当な行いと断罪し、この年正月、鳥羽伏見の戦いを皮切りに始まった戊辰戦争に際しては、新政府軍を「天兵」とし、「錦旗の下に団結して」これに参加し、「逆賊」である幕府軍を討伐する戦いに加わることを宣言している。実際に武田浪人たちの一部は、新政府軍の板垣退助の指揮下に加わって戦闘に参加していた(断金隊・護国隊)。
岩窪盟署後の勤王につき議定之事(甲州文庫) 明治4年(1871) 山梨県立博物館   小澤平九郎ら武田浪人が、世話役の年限が1年限りであることを確認したもの。戦国末期の天正年間以来、武田浪人は「相互ニ同列」であり、「岩窪盟署」こと岩窪の信玄墓所での誓い以降、世話役を設置していた。今後どのような指示が政府からあったとしても、世話役は1年交代とするとしている。世話役がどのような役割を務めていたかは定かではないが、明治になっても武田浪人たちが連携して活動を継続しているようすがうかがえる。
士族編入につき願書(甲州文庫) 明治8年(1875) 山梨県立博物館   小澤平九郎ら武田浪人が、世話役の年限が1年限りであることを確認したもの。戦国末期の天正年間以来、武田浪人は「相互ニ同列」であり、「岩窪盟署」こと岩窪の信玄墓所での誓い以降、世話役を設置していた。今後どのような指示が政府からあったとしても、世話役は1年交代とするとしている。世話役がどのような役割を務めていたかは定かではないが、明治になっても武田浪人たちが連携して活動を継続しているようすがうかがえる。
士族編入につき御指令御願(甲州文庫) 明治9年(1876) 山梨県立博物館   武田浪人であった野沢氏が、県令藤村紫朗に対し、再度士族に編入してくれるように願い出たもの。前年の訴えに対し、県庁は「追って御沙汰あるべし」と返答したが、一向に音沙汰がないため、催促に及んだという。士族には法律上の特典はないものの、江戸時代を通じて村落上層部として影響力を持っていた武田浪人にとって、他の村民と同じ平民身分では我慢がならなかったものであろう。この後も野沢氏は度々士族への編入を願い出ているが、結局士族になることはなかったものとみられる。
甲州勝沼駅ニ於テ近藤勇驍勇之図(複製) 原本
慶応4年
(1868)
山梨県立博物館   月岡芳年による浮世絵。慶応4年、板垣退助らの新政府軍と近藤勇らの幕府軍が柏尾(甲州市)で衝突した勝沼の戦い(柏尾の戦い)の様子を描く。
天保騒動絵図(複製) 原本
江戸時代
山梨県立博物館   天保7年(1836)8月に発生した天保郡内騒動の進行のようすを描いた絵図。
近世侠客有名鑑(複製) 原本
明治時代
山梨県立博物館   明治時代中頃の関東の侠客について、相撲の番付の形式をとり、ランキング形式で示したもの。甲斐国からは、著名な黒駒勝蔵のほか、武井安五郎、身延半五郎、祐天仙之助などの名前が見える。


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