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インデックス>展示案内>シンボル展とは?>シンボル展「生誕200年 若尾逸平」

展示案内


 
若尾逸平ポスター
※新型コロナウィルス感染拡大防止のため、本展は中止となりました。
今年、甲州財閥の代表的人物である若尾逸平の生誕(文政3年)から200年を迎えます。若尾は、天秤棒一本の行商人からスタートし、明治時代には初代甲府市長や貴族院多額納税者議員を歴任し、山梨県の政財界を代表する人物となりました。実業家としても東京電燈や東京馬車鉄道といった、帝都東京の重要なインフラを担う企業の経営権を手に入れ、「甲州財閥」の名を日本中に轟かせています。本展ではそんな若尾の表の顔である実業家としての業績を見ながら山梨や日本の近代史を振り返っていただきつつ、その素顔にも迫ってまいります。
※新型コロナウィルス感染拡大防止のため、本展は中止となりました。
■期間
 令和2年5月23日(土曜)【延期】→6月1日(月曜)〜6月29日(月曜)
 (休館日 毎週火曜日
※新型コロナウィルス感染拡大防止のため、本展は中止となりました。

■時間

 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)

■主催
 山梨県立博物館

 
■まぼろしの展示案内
本展は中止となり、「まぼろしの展覧会」となりましたが、本展でご紹介する予定だった若尾逸平関係資料や内容について、Twitterで公開しております。こちらには公開済みの内容を掲載いたしますので、ぜひこちらもご覧ください。
 5/23おうちで古文書 5/24囲碁大好き 5/27好きな食べ物 5/3150の手習い 6/1西郡数え歌
 6/3若尾逸平の人となり 6/6支えた弟と妻 6/8若尾逸平像と若尾公園 6/11中央線と若尾逸平
 6/18高精細写真にみる若尾銀行と本邸 6/21政財界人が見た若尾逸平 6/22華麗なる若尾一族
 6/24立志伝のなかの若尾逸平  6/25「幕僚」とされる面々  6/26対照的なライバル栗原信近
 6/29シンボル展仮ポスターのこと           
 
・令和2年5月23日(土曜) おうちで古文書講座「生誕200年 若尾逸平」(PDFファイル 6.5MB)
 
・5月24日(日曜) 囲碁大好き
【まぼろしの展示案内・シンボル展生誕200年若尾逸平】
「まぼろしの展覧会」となってしまったシンボル展の展示内容について、担当学芸員より何回かお届けします。最初は館蔵資料から、若尾逸平が使用した碁盤です。経済界での活躍で知られる若尾ですが、囲碁を大変愛していたことでも知られています。
若尾逸平碁盤

【若尾逸平の碁笥と碁盤のふた】
碁盤だけ見ても何もわかりませんが、ありがたいことにこの碁盤にはふたがあり、ふたの裏には「明治二拾年亥二月求之 若尾逸平」と記してあります。やや右上がりの書き方などの特徴から若尾の自筆と思われますが、能書家としての若尾については回を改めて紹介します。

若尾逸平の碁盤のふた

【山梨県囲碁界の大関】
写真は山梨県の囲碁界の番付で、若尾は堂々東の大関に名を連ねています。実際の腕前はともかく、囲碁好きの若尾の評判は相当知れ渡っていたのでしょう。ある伝記には、大隈重信邸で対局中に劣勢のまま卒倒し、意識を取り戻してなお勝負を続けようとした逸話が記されています。

甲斐碁鑑
   

・5月27日(水曜) 好きな食べ物

【まぼろしの展示案内2】
若尾は粗食で蕎麦や餅を好んだとされますが、特に餅を好むこと大変なものがあったようです。代表的な伝記、内藤文治良著『若尾逸平』によれば、この餅は姪にして養嗣子民造の妻である幾久子特製のメニューで、丁寧に拵えた餅粉を毎朝練り上げて作られたものとされています。

伝記『若尾逸平』(内藤文治良著)

【朝から餅7つ】
松崎天民の「甲州見聞記」には「最も老人に珍とするは餅を好むこと異常な一事で、大概朝は海苔に巻いた餅七切位を平気で食ふ。碁を囲んで居る折の如きは無意識の裡に餅を食ふこと驚くばかり。」とあり、松崎が対面したのは若尾が数え93歳の時のこと、現代の私たちも驚くばかりです。

松崎天民『甲州見聞記』より

【基本は手間いらず】
心尽しの餅を毎朝頬張る若尾ですが食には概ね無頓着で、何でも「甘え甘え(うめえ)」と食べてしまう極度の早食いでした。とあるお呼ばれした時、若尾は「こりや甘えお汁だ!」平らげましたが、家人が確かめてみると「甘え」お汁にはうっかり醤油が入ってなかったなんてことも。

 

・5月31日(日曜) 50の手習い

【まぼろしの展示案内3】
趣味の碁、嗜好の餅ときて若尾逸平の特技といえるのが書です。写真は若尾が最晩年に筆を揮った扇面です。『山梨県人物誌 初編』(明22)には、「年五十歳に至り初て家政整頓し小事は托するに人あるを以て文学に志し、閑あれば則ち書を読み字を書し自から楽と為す」とあります。

若尾逸平扇面(当館蔵)

【50の手習い】
若尾の50歳といえば、明治初期に甲府で有数の商人になったころ。90歳近くのある席では「十四五歳の折迄手習ひせしも、漸く『郷尽』を暗ぜしに過ぎず、手紙一本書くすらも不自由なりし」と述べていたようで、功成り名遂げてもなお、向上心を持ち続けていたことには驚かされます。

晩年の若尾逸平写真(当館蔵)

【いくつになっても】
前の写真は最晩年に手習いに励む若尾の姿です。晩年に至っても多い時で1日100枚の唐紙に習字をしたそうです。甲州財閥のボスとなり、また甲府駅開業時に掲げられた「祝開通」をはじめ、様々な揮毫を求められるようになってからも、こうした習慣を自らに課し続けていたのですね。

甲府停車場開通式(当館蔵)

・6月1日(月曜) 西郡数え歌

【まぼろしの展示案内4】
前回若尾が幼少期に暗誦したという『郷尽』ですが、伝記『若尾逸平』によれば、若尾の実父林右衛門が作ったものとされ、同書にはその全文が掲載されています。当館の所蔵資料を調べて見ると、「甲斐国西郡郷名尽」という名で甲州文庫に収蔵されていることが分かりました。

甲斐国西郡郷名尽(当館蔵)
・「甲斐国西郡郷名尽」全文(※ブラウザで拡大、コピーアンドペースト、あるいは読み上げソフトでお読みください。)
(標題) 甲斐国西郡郷名ずくし(「ず」はママ)
(本文) 甲斐国西郡郷名尽/最とかしこき君が代に/民も賑ふ甲斐国 府/中遥に西郡 高根聳/へし其中に 人は白根の/雪解て 鳳凰山の下(シタ)流れ/水も溢れてほとばしる 勿/體なくも一天の 君の恵/ぞ其の昔 下知を給は/る御勅使 其の名にめ/でゝ勅使川 今は静に/安通を 走る駒場のい/さぎよく 景色とゝのふ/築山も 有野の里も/賑はしき 清き流れに有/明の 月さへ澄める徳島を/心豊に打渡し 連/も百々の友千鳥 言葉/六科の品やかに 野牛島/すべて榎原 感応(ノヲ)深き/観世音 願ふ我身の上/八田 筏流るゝ釜無川の/川の辺(ホト)りに名に(ニ)しあふ/上下繁る高砂の、松諸共/に相生の 幾千代かけて/徳永と 昔しも今も今諏/訪に 上下へだてゝ今井まで/すめる西野の賑いて 土地/も吉田の里なれば 武者/の加賀美の甲斐源氏/遠光公の御旧跡 末/葉伝ふ法善寺 弘法/大師を伏拝み 清き鏡/の中條に 後の世までの/長遠寺 導き給ふ/法華経の 声も聞ゆる/寺辺より 通を藤田の村は/づれ 西と東の南湖から/清水流るゝ和泉川/鴨(カモ)鷺(サギ)遊ぶ戸田の里 尽/ぬ江原の御(ミ)手(タ)洗(ラシ)に なくや/田島の群蛙 十日市場/の賑はしきさ たからく/を積こめて 縁(ユ)由(カリ)あまた/の十五所を めぐりくて/沢登 実(ゲ)にや事古/在家塚 毘沙門天/を安置して 栄へ繁れ/る七郷の 原の鎮守と/あがめける 宮地ときいて/有がたや 三輪の社をふし/拝み さきは上野か川上か/はるか眺めて鋳物師屋に/村雨しのぐ小笠原 花/につや(ツヤ)そふ桃園も 飯/野も越へて 曲輪田に/利生あらはす上宮地 大神/山の伝司院 花の白雲/たなびきし 釈迦牟二仏/の御尊霊 帰依(エ)する人/の山寺と 四方に名高き/高尾山 穂見の神社/は之とかや 下りて見れば/平岡に 住まで下一上一の/二タ瀬にひゞく 滝の音/高く聞えし 妙了寺 経/堂祖師堂位牌堂 心/ゆたかに祈念して 二人/の中野落合を かたく/定めて大久保と 秋山/ならで末永く 汲(ク)めども/尽きぬ湯沢から 塚/原までも精出して 何/時も仲よく舂米に/心を寄る平林 小林山とは/是とかや 旭まばゆく南/明寺 葵の御紋輝きて/東照宮の御霊屋(ヲ(ク)) 忝な/くも拝礼し やがて天神/中條の 天満宮も参拝し/最(イト)も勝れし最勝寺/小室山とて妙法の/寺の威徳ぞそなはりて/境内広く樹々茂り/法論石の御旧跡 参りて最早や高下(トカオリ)の/また立帰り鮎沢に 人の群衆(シュ)の古市場/なほ宮沢に通夜こめて 大慈くの観世音/恵の情に大椚 軒をつらねし荊沢に/泊りくを呼子鳥 糸の長沢青柳/此の村さきの富士川に 幾代すむらん鰍沢/実(ゲ)に繁栄の御代なれや あまたの船/に限りなく 年の貢を積上げて/君へ捧ぐる豊年の 寿く笑顔ぞ/床(ユカ)しける
※( )内は資料に書き込まれているルビ、/は改行部分になります。地名表記は原文のママとなります。

【父林右衛門(二代)】
甲斐国には九筋二領という行政的区分があり、若尾が生まれた在家塚村付近は西郡筋にあたります。若尾家は西郡のなかでも水利に乏しい原七郷と呼ばれる地域にあり、林右衛門は村役人として、貴重な徳島堰の水利関係に奔走したことが、当館の所蔵資料のなかからもみつけられます。

徳島堰関係資料のうち林右衛門署名記載部分の抜粋(当館蔵)

【さすがの功刀亀内】
甲州文庫の「郷名尽」の字は割合雑で時代感のある字に見えません。これはある人物の字に似ていると考え調べてみると、巻末の裏返しに貼り込まれた部分に何やら記述が。撮影して反転してみると「昭和二年九月十七日病後の写 功刀亀内」と。さすがは甲州文庫収集者の功刀さんです。

甲斐国西郡郷名尽(当館蔵)の巻末反転画像

・6月3日(水曜) 若尾逸平の人となり

【まぼろしの展示案内5】
この写真は、貴族院多額納税者議員時代の若尾逸平の写真です。若尾はこの頃の山梨県の高額納税者第1位でした(第2位は根津嘉一郎)。当時すでに70歳を迎えて居た若尾は、容貌の荒々しさも影を潜め、もともと小柄だったことから、「貴族院のお婆さん」と称されたそうです。

貴族院多額納税長者議員写真帖(当館蔵)より

【キンキン声】
若尾家のご近所さんだった名取淑子は、著書『たどりしあと』で、幼稚園のころ若尾璋八の三女勝世と若尾本邸で遊んでいたところ、小さなおじいさんの若尾と出会い、「あれ、これが名取さんちのぼこけえ!」とキンキン声の甲州弁丸出しで言われたことを覚えていると書き残しています。

若尾本店(甲府市山田町)『若尾逸平』より

【ああ、そうけ】
容姿や声以外の特徴は、若尾は身なりや細かいことには無頓着だったようで、伝記『若尾逸平』には室内で帽子を取り忘れたり、便所の草履のまま座敷に入り、注意されると「ああ、そうけ」と草履を脱いで座敷の中央に草履を置いて平気な顔をしていたというエピソードも記されています。

帽子を手に持つ若尾逸平(『若尾逸平』より)

・6月6日(土曜) 支えた弟と妻

【まぼろしの展示案内6】
若尾逸平が一代で大きな飛躍をなし得たのは、弟幾造と妻はつの存在が大きかったと言えます。はつは甲府下一條町の名主細田利兵衛の娘で、人の和を貴ぶ気配りの人だったとされます。大きくなっていく若尾家を、イケイケドンドンの若尾とは違った立場で支えていたのでしょう。

若尾夫妻(『若尾逸平』より)

【横浜若尾家】
幾造は兄逸平が安政5年に商売の道に引っ張ってから、片腕とも頼る存在でした。兄弟の連携で横浜開港後の水晶取引で大儲けしたエピソードはあまりにも有名です。明治9年頃に分家して幾造の家系は横浜若尾家となり、横浜有数の生糸商として繁栄していきました。(顔写真は2代目幾造)
横浜本町四丁目若尾幾造の印(「糸仕切書」若尾幾造作風間伊七宛 当館蔵より

「在浜山梨県人名録」(当館蔵)掲載の二代若尾幾造

【二代目民造】
若尾は明治27年に家督を民造に譲りますが、彼は妻の弟で細田家から養子に入りました。その後も逸平は20年近く長命を保ちましたので、相続後も東京電燈の株式買い占めや東京市内の電車経営にも活躍し、民造も養父の後ろ盾のあるなか甲府市長(7代)や甲府連隊誘致などに活躍しました。
若尾家三代(『若尾逸平』より)

若尾家が用地を寄附して誘致した歩兵第49連隊営門付近

・6月8日(月曜) 若尾逸平像と若尾公園

【まぼろしの展示案内7】
若尾逸平の米寿記念に明治40年に建てられた銅像です。後の稜線は愛宕山でしょう。明治45年の写真にも写っていました。大正10年12月には若尾公園となります。八日町の若尾銀行、山田町の本邸、愛宕町の長禅寺の墓所とこの公園にかけては若尾のゆかり深い地域だったのでしょう。
明治45年春に撮影された愛宕山のふもとに若尾像(の白い台座)がみえる
※拡大写真
若尾逸平像の部分の拡大写真

愛宕山ふもとの若尾逸平像を写した絵葉書(個人蔵)

【若尾逸平像と若尾公園】
こちらは若尾像のミニチュアです。寿像建設時か公園開業時の記念品でしょうか。右足がやや踏み出されている所が、行動力溢れた若尾らしい姿と言えましょう。伝記『若尾逸平』には有志者五百名余により製作は写真小川一眞、原型河村嘉祥、鋳造漆原新七によるとされています。

若尾逸平銅像ミニチュア(当館蔵)

【失われた像と台座】
若尾像は戦時中の金属供出のために現存せず、若尾公園も山梨英和学院の敷地となっています。当時の面影を残すものはありませんが、台座に刻まれた銘文については伝記『若尾逸平』に全文が記載されています。また、戦後復元された姿が南アルプス市の隆厳院でみることができます。
若尾逸平像の銘文(『若尾逸平』より)

南アルプス市内の復元された若尾逸平像の上半身
【若尾逸平像銘文の読み下し案】(※ブラウザで拡大、コピーアンドペースト、あるいは読み上げソフトでお読みください。)
逸斎若尾翁銅像銘ならびに序
翁の名は逸平、号は逸斎、若尾氏の系は新羅公義光から出る。世に甲州巨摩郡下山村に居し、新九郎に至て郡之原郷里、称は在家塚にうつり、以て其の墳墓の有るなり。
子孫は里正として襲ぎ、考(亡き父)林右衛門、妣(亡き母)飯野氏は三男一女を生み、翁は仲(次男)なり。以って文政三年十二月六日に生れる。
考の時、徳島堰水路訴訟起こり、紛争多年、考その事の幹たり、家道為めに衰翁す。年弱冠にして質孱(しちさん)に耒耜(らいし)を執るに堪えず、江戸に奔り抵(いた)り、旗下の士清水新右衛門に仕え、武を講じ、以って筋骨を錬る。
数月親党強く諭し帰郷す。年廿二にして貿遷事を始めるにより、桃子(※)を数駄購いこれを信州に輸すも、天は暑く道は遠く、未だ販らずして悉く腐る。翁は笑って曰く、「偶の足を以って吾が志を励まさん。」
更に烟艸、絹、綿を負販(行商)し、艱楚を備(つぶさ)に嘗め、年廿七にして、贅壻(ぜいせい=入婿の意)小笠原村常盤氏に居して七年、故有りて去る。
轗軻(かんか)数歳、居を甲府に定めて、幕府の横浜港を開くに会す。翁、空手にてこれに赴き、苦心経営して、蚕糸の輸出を以って綿花、糖霜(白砂糖)に易え、また自作製糸機を設け、山田町を場とす。
資産漸く饒となり、弟幾造また奮励協力し、嘗て横浜に在りて外商盛んに水晶を購うを聞き、翁に馳せ告ぐる。途に遇うこと八王子にて、翁おもえらく、機は逸するべからず。直ぐに還過し家門にして入らず、御嶽におしかける。
御嶽水晶の天下の名にして、翁、悉くこれを購い致し、横浜の利を獲ることただならず倍増す。
幾ばくもなく王師東下し、無頼少年官軍に応ずると称し、民の財を掠奪し、翁、叱りて曰く、「奴輩懲しむべく、みずから壮丁を率い、闘郤の進めに力めん(※)」と。
官軍を迎え、金穀を献じ、勤王に事(つか)えし功を以って、里正格に擢され、明治五年、州内に大小切之事有り。大小切は甲州旧租法なり。暴民同じく此の騒擾の加えし商業の蹉跌を以って、其資半ばを耗し、九年春、翁、折を見る所有りて、余財十万円を頒ち、二万を宗家、僕隷と幾造に各四万を取り、以って子孫の為に計る。
時に年五十七、是夏商機復た旺んとなり、翁、手に唾して曰く、「おれは再び牙籌(がちゅう=そろばん)を握りて出るべし。」と、数万金の贏(えい)を立てる。
西南の役の後、楮幣(ちょへい)濫行之(※)を承け、銀価殆んど楮幣に倍し、富賈(ふこ)色を失い、翁謂わく、「これ一時気運にして、豈に能く久しからんや」と、徐(おもむろ)にこの策を講じ、のち果して謀する所の如く復た巨利を博す。
是に於て、富は海内に聞え、翁、公私に力を致し、為めに山梨県會議員、甲府市長、鉄道会議員、嘗ては貴族院議員に任じ、政府の地租増徴の議有るに、衆遅疑するに、翁、首にこの議に賛し、遂に決せん。
若しくは、横浜正金銀行、東京馬車鉄道、東京電燈会社、また功労有りて中央鉄道の完成し、その力最も多し。
三十二年、官これを嘉賞し、緑綬褒章を賜う。
三十九年、大日本蚕糸会、また金牌を贈り、その始め輸出蠶糸の功を称えん。
翁、性剛悍にして果決。機知衆に邁れ、年少にして志を立て、至大の成身を遂げ、また、矍鑠齢九十に至り、壮者に類し、少時の蒲柳(ほりゅう)を凌ぐ。全く別人の如し。老いての嗜みとして臨池(りんち)の技、頗る造詣有り。また善き碁は入品(にゅうぼん=初段)に称う。
妻細田氏子無く、妻の弟民造を養い嗣とし、幾造長女を以てこれに配す。
また、能く継述して若尾銀行、若尾倉庫等を建て、家道ますます隆す。
翁八十八、時に有志者醵貲(きょし)し銅像を鋳すを欲す。以て朽ちず伝えること、今ここに己酉の春に工を竢ち、銘を来請し予識す。
翁、貴族院に於いて、故辞さずして銘として曰く
機山公を惟うに 峡中に崛起(くっき)し 兵を用い勝を制す 静なる林と疾き風
兵は商に通じ 翁は術を得て 機に乗じ贏をとる また出す律を以て
少壮にしてれいかく(粗末な食事 ※)し、耆耋(きてつ=老齢)にして膏梁(おいしい食事)す
富は陶朱(越王句践に仕えた范蠡のこと。退官後陶朱公となのり商売で大成功)に擬し
寿は彭(せんぽう=伝説上の長寿の仙人 ※)に匹(なら)ぶ
その貌は豊腴(ほうゆ)にして その気は精悍たり 範銅は磨かずして 天の賛する所たり
          勅選議員金鶏間祗候
               正四位勲三等文学博士 重野安繹撰
明治四十二年四月       正五位 日下部東作書
(※「桃子」は文字コードの便宜上表記。「闘郤の・・・」は読み未確定。「」は「弊」か。「れいかく」は草かんむりに「黎」と草かんむりに「霍」。「」は竹かんむりに「錢」。)

・6月11日(木曜) 中央線と若尾逸平

【まぼろしの展示案内8】
健脚で稼いだ若尾逸平だけあって、早くから鉄道に有用性を見ていました。東京・長野・山梨の有志で立ち上げた甲信鉄道計画は、官設鉄道の御殿場から富士北麓を経て甲府・松本を目指す計画でした。若尾は公債鉄道計画を定める鉄道会議の議員にもなり、中央線計画に尽力します。

御殿場から甲府を目指す甲信鉄道の線路図面(「甲信鉄道起業目論見書」より 当館蔵)

【中央線と若尾】
鉄道会議において若尾は地域産業の利害を代表して「生糸取引においては東京に直接つながることが最も便利である」という趣旨の発言を行い、現在の中央線ルート決定を大きな後押しします。中央線最大の難工事、東洋一の笹子隧道の完成式典には、雨宮敬次郎らとともに顔を並べています。

笹子隧道開通式(「中央東線鉄道線路概況」当館蔵 より)

【碑文と赤切符】
笹子隧道記念碑は開業時は甲府駅前、のち舞鶴城公園内、現在は笹子駅前にあります。裏面に若尾の書となる文が刻まれていますが、「明治三十八年」とあり碑が建ってから彫られたのでしょうか。建設に尽力した若尾ですが、自ら乗る時は決まって「赤切符(三等車)」だったそうです。
笹子隧道の碑拓本(『若尾逸平』より)

笹子隧道記念碑の碑文(平成25年ごろ撮影)

・6月18日(木曜) 高精細写真にみる若尾銀行と若尾本邸

【まぼろしの展示案内9】
「若尾本邸」とされる写真です。大正天皇が東宮時代の明治45年春に本県を行啓された際に甲府商業会議所(当時)に撮影されたもの。大きなガラス乾板が原版で、情報も多くとれる資料ですが、どこをどの向きから撮影したものかは未解明です。片方には遠く山並みも写っています。
行啓写真「若尾本邸」02

行啓写真「若尾本邸」01

【山田町の若尾本邸】
間違いないのが伝記に掲載された写真です。名取淑子『たどりしあと』には「若尾さんの本家には、空襲でも焼け残ったほどの大きなお蔵があったんですよ。東の方にずっとならんで。(略)土蔵造りで、道路側には頑丈な鉄格子がはまった立派なおうちでしたけど」と記されています。

笹子隧道開通式(「中央東線鉄道線路概況」当館蔵 より)

【八日町の若尾銀行前】
「若尾本邸」と同じ行啓写真から八日町の若尾銀行です。現在のNTT甲府支店の位置にあたります。立派な建築だけでなく、開業当時は資本金で第十銀行を凌ぐ県下最大の金融機関でした。道路中央には馬車鉄道の軌道が通り、当時の八日町の若尾銀行界隈の賑わいが窺い知れます。


行啓写真「八日町通り」

行啓写真「八日町通りと若尾銀行」

・6月21日(日曜) 政財界人が見た若尾逸平

【まぼろしの展示案内10】
甲州財閥を端的に表す「若し株を買ふなら将来性のあるものでなければ望がない。それは"乗りもの"と"あかり"だ」という若尾逸平の言は、根津嘉一郎へのものとされています(『根津翁伝』)。若尾は若い根津に信頼を寄せ、若尾の没後は根津が甲州財閥の中心となっていきました。

根津嘉一郎(「山梨県肖像録」より)

【永遠のライバル?雨宮敬次郎】
若尾と並んで甲州財閥を代表する人物である雨宮敬次郎の伝記『過去六十年事績』には若尾についての記述は殆どなく、「外資輸入に尽力」の節で松方デフレ期の寄生地主拡大期を指し、「若尾逸平さんの地面などもあの時に皆んな買つた地面だ」とのコメントに留まっています。
若尾勧農部所属組合功労賞盃(当館蔵)

雨宮敬次郎肖像写真(「仲買人雑誌 第2号」より)
   
【大隈重信邸でのエピソード】
「囲碁大好き」(5月24日付)で触れた若尾が卒倒から意識を回復してなお囲碁の勝負に拘った大隈邸での出来事は、伝記『若尾逸平』に寄せた大隈の序文では、昏睡から覚めて突如「兜町の景気は如何だ」と叫んだという、若尾の投資家としての執念を感じる逸話に変わっています。
大隈重信肖像写真

伝記『若尾逸平』に掲載された大隈重信(当時第二次組閣時)による序文



・6月22日(月曜) 華麗なる若尾一族(民造、璋八、謹之助)

【まぼろしの展示案内11】
若尾逸平の後継者のうち養嗣子民造は甲府若尾家の2代目として関連企業の要職や第7代甲府市長を務めました。伝記『若尾逸平』には養子入り前の細田長治郎の頃、逸平の跡継ぎに見初められる経緯が書かれている一方、さる伝記にはそのプレイボーイぶりが書きたてられています。

若尾民造肖像写真(「峡陽名士肖像」より)
「峡陽名士肖像」(当館蔵)より

【栄華の終わりと若尾璋八】
璋八は塩山の広瀬家出身で民造の次女清野と結婚して若尾家入りしました。東京電燈の経営撤退など若尾家の落日を象徴する人物でもありますが、「現代峡中名家小伝」には少壮の璋八を中央の実業・政治界で活躍するであろう人物として「若尾家の一大柱石たり」と評しています。
「電力統制私案」若尾璋八著
電力統制私案(当館蔵)

若尾璋八肖像写真(「山梨県肖像録」より)
「山梨県肖像録」(当館蔵)より

【文化の庇護者・若尾謹之助】
民造の子で若尾家3代目となった謹之助は県志編纂事業を立ち上げるなど文化事業でも知られる人物です。県志は中断となるも郷土史界が活性化され現在につながる礎となっています。また謹之助の著書「おもちゃ籠」は郷土の遊びや玩具についての貴重な資料となっています。
「おもちゃ籠」若尾謹之助著
おもちゃ籠(当館蔵)

若尾謹之助肖像写真(「山梨県肖像録」より)
「山梨県肖像録」(当館蔵)より

・6月24日(水曜) 立志伝のなかの若尾逸平

【まぼろしの展示案内12】
若尾逸平の伝記の集大成として若尾逝去翌年に刊行の内藤文治良『若尾逸平』は若尾家公式の伝記としての資料性もさることながら読み物としても面白く今回もよく引かせてもらいましたが、若尾在世中も同時代の成功者という視点で数々の逸話を紹介する書物が刊行されています。
内藤文治良『若尾逸平』の冒頭部分
内藤文治良『若尾逸平』(個人蔵)より冒頭部分

内藤文治良(『甲州古今人物辞書』より)
『甲州古今人物辞書』(当館蔵)より

【玉石混交の伝記】
若尾の足跡を記した評伝類は当館所蔵のほか国立国会図書館デジタルアーカイブでもおうちで多数読むことができます。これら伝記も種本の系譜があり、出身地が「塚原村」という間違いが20年近く脈々と書き継がれている例もある一方で若尾本人に取材した資料性の高い伝記もあります。
(※写真は「在塚村」と「家塚村」の間違い例。正しくは「在家塚村」。)
『明治百商伝』の間違い「家塚村」
『明治百商伝』(明治13年 当館蔵)
※国立国会図書館デジタルアーカイブでも閲覧可。

『峡中名士小伝』の間違い「在塚村」
『現代峡中名士小伝』(明治43年 当館蔵)
※国立国会図書館デジタルアーカイブでも閲覧可。

【おすすめの口述筆記】
読む価値が高いのが中村木公編『名家長寿実歴談』(明治40年)でしょうか。横浜開港や政府紙幣大量借入時など、数々の転機での経緯や決断、その哲学を本人の記憶と言葉(甲州弁ではないものの)で語られている貴重なものです。ぜひ国立国会図書館で検索してみてください。

「名家長寿実歴談」の扉(個人蔵)
「名家長寿実歴談」の扉(個人蔵)

・6月25日(木曜) 「幕僚」とされる面々

【まぼろしの展示案内13】
伝記『若尾逸平』巻頭に「幕僚」と紹介されている面々です。このうち小池國三(右列上から2人目)は少年時代から若尾のもとで働き眼を掛けられていました。長じて小池国三商店を起こしてこれがのち山一證券(平成9年廃業)となりました。「山一」は若尾家の屋号「山に市」が由来とされています。

内藤文治良『若尾逸平』巻頭口絵より
『若尾逸平』巻頭口絵より

【異色の佐竹作太郎】
京都出身でもとは藤村紫朗知事の腹心の佐竹が「幕僚」となったのは栗原信近との第十国立銀行の経営方針争いの時からです。同行2代目頭取となり以後若尾の投資活動や企業経営の先鋒となりました。没後、若尾公園に銅像が建てられましたが若尾像と共に金属供出され現存しません。

第十銀行社屋(当館蔵)
第十銀行社屋(当館蔵)

佐竹作太郎像(当館蔵アルバム)
佐竹作太郎像(当館蔵アルバム)

【養子はイヤな小野金六】
小野が「幕僚」とは違和感がありますが、若尾は若き日から聡明さを顕していた小野を見込んで養子に望んだものの「若尾さんでも養子は真っ平だ」と小野が断ったと言われています。小野は銀行や製紙業のほか富士山麓開発や身延線建設に尽力し山梨にも多くの足跡を残しています。
平成20年ごろの台座写真
平成20年ごろの台座

小野金六像(当館蔵絵葉書)
小野金六像(当館蔵絵葉書)

・6月26日(金曜) 対照的なライバル栗原信近

【まぼろしの展示案内14】
近代化の波に対応して経済的な大成功者となった若尾逸平ですがその好対照ともいえるのが穴山村(韮崎市)出身の栗原信近です。第十国立銀行の経営を巡り対立した若尾と栗原、資本主義社会の到来への対応、その哲学など、歴史が翻弄して表裏に分けた対照的存在とも言えます。

栗原信近・野口正章・野口小蘋・大木喬命らを捉えた写真
右端が栗原信近(当館蔵)

【明治10年代の明暗】
松方デフレや政変で明治国家のあり方が激動するなか政府紙幣大量借入と紙幣価値の持ち直しで資産を大幅強化した若尾、政府が模範工場や資金融通政策を縮小するなかで市川紡績所を開設し積極的な勧業政策を維持し失脚した栗原。歴史の荒波は両者に大きな明暗を分けたといえます。

市川紡績所を撮影した絵葉書より(個人蔵)
市川紡績所絵はがきより(個人蔵)

【奇縁が結ぶふたり】
ふたり(と八田達也)は東宮時代の大正天皇行啓時に甲府城内の機山館で拝謁しています(実際は侍従からお言葉の伝達と茶菓の御下賜)。故古屋栄和氏が指摘していますがこの際栗原が和解を拒む歌を詠んだと伝記『若尾逸平』に記されています。栗原の業績については山梨近代人物館や山梨中銀金融資料館の展示もご注目ください。

東宮(大正天皇)の宿舎となった機山館を撮影した写真(当館蔵)
東宮(大正天皇)の宿舎となった機山館(当館蔵)

・6月29日(月曜) シンボル展の仮ポスターのこと

【まぼろしの展示案内最終回】
開催が予定されていたシンボル展「生誕200年 若尾逸平」は本日が最終日の予定でしたが、この連載も本日が最終日となります。南アルプス市立美術館様ご所蔵の「若尾逸平一代図屏風」(中澤年章筆)など、まだご紹介したい資料はありますが、次の機会とさせていただきます。
マスク着用前のシンボル展ポスターの掲示状況
当館駐車場への掲出状況(既に撤去しました。)

シンボル展仮ポスター通常バージョン
シンボル展仮ポスター(通常版)

【仮ポスターのこと】
当館の入口付近などに設置していた仮ポスターですが、時節柄逸平翁にもマスクを着用していただきました。当館におきましても安全かつ安心にご観覧いただけるよう努めておりますが、いつかまた翁にマスクを外して展覧会にお出ましいただける日を心待ちにしていきたいと思います。

マスク着用後のシンボル展ポスター掲示状況
当館駐車場への掲出状況(既に撤去しました。)

シンボル展仮ポスターマスク着用バージョン
シンボル展仮ポスター(マスク着用版)

【常設展示室にて】
現在当館企画展示室では常設拡大展示「かいじあむ+(ぷらす)」を展開していますが、元々の常設展示室内「巨富を動かす」において、シンボル展で紹介する予定だった若尾関係資料のごくごく一部を展示しておりますので、当館にお越しの折にはお立ち寄りください。(8月17日まで)

 

常設展示室「巨富を動かす」の若尾逸平ミニ展示の状況
常設展示室「巨富を動かす」にて

■展示構成と展示予定資料
※新型コロナウィルス感染拡大防止のため、本展は中止となりました。
・展示構成(予定)

 ◆序章 現在に生きる若尾逸平 <私たちのくらしに息づく若尾逸平の業績とは!?>
 ◆第1章 若尾逸平こんな人 <素顔の若尾逸平、囲碁好き・餅好き・キンキン声…>
 ◆第2章 進め!甲州財閥 <帝都東京に名が轟く、事業家・財界人としての若尾逸平>
 ◆第3章 政治家・若尾逸平 <山梨政財界の元老若尾逸平の実力>
 ◆終章 若尾逸平とはどんな存在だったのか <山梨にとっての若尾逸平の歴史的意義>

※新型コロナウィルス感染拡大防止のため、本展は中止となりました。
・展示予定資料
甲斐国西郡郷名尽(写真は冒頭部分)
江戸時代
当館蔵(甲州文庫)


若尾の出身地の在家塚村周辺の西郡地域の村を名物とともに歌の調子で紹介するもの。伝記『若尾逸平』によれば、これは若尾の父である林右衛門が近郷の児童のために作った「郷づくし」だとしており、同伝記の後半部である「逸斎翁逸事」には、その冒頭にこの「郷づくし」の全文が掲載されている。
甲斐国西郡郷名尽(当館蔵)
若尾逸平扇面
明治末〜大正初期
当館蔵


若尾が晩年(90歳に達した頃)に記した扇面。
若尾逸平扇面(当館蔵)
晩年の若尾逸平写真
明治末〜大正初期
当館蔵


老いてもなお手習いを自らに課していたことがうかがえる写真。1日平均2500字をノルマとしていたという。
晩年の若尾逸平写真(当館蔵)
甲斐碁鑑
明治18年(1885)
当館蔵(甲州文庫)

山梨県の囲碁ランキング。東の大関(画面右上端)に「山田町 若尾逸平」の名前を見ることができる。若尾は青少年の頃から囲碁を嗜んでおり、唯一といっても良い趣味・道楽であり、相応の腕前を持っていたものと思われる。
甲斐碁鑑(当館蔵)
若尾逸平の碁盤
明治20年(1887)2月
当館蔵

若尾逸平が使用、あるいは贈呈した碁盤。碁盤を覆う蓋が附属しており、その裏には「明治二拾年亥二月求之 若尾逸平」と記しており、筆跡ともども若尾ゆかりの品として貴重なものと言える。
若尾逸平碁盤(当館蔵)
甲府繁盛寿語呂久
明治35年(1902)
当館蔵(甲州文庫)


甲府の繁栄をすごろくでひとめぐりできるもの。ふりだしは若尾も創立に関与した第十銀行(現在の山梨中央銀行の前身のひとつ)で、上がりは若尾銀行となっている。同趣旨のすごろくの翌年(明治36年)版はふりだしと上がりが逆になっている。
甲府繁盛寿語呂久(当館蔵)
若尾勧農部所属組合功労賞盃
明治時代
当館蔵


若尾家の家紋「丸に三つ引き」が入った銀盃。外面には資料の標題である「若尾勧農部所属組合功労賞」とあり、若尾家の県内最大規模の地主経営に関わるセクションの記念品だと考えられる。
若尾勧農部所属組合功労賞盃(当館蔵)
若尾逸平肖像写真(「貴族院多額納税長者議員写真帖」より)
明治23年(1890)
当館蔵(甲州文庫)


貴族院多額納税者議員就任当時の若尾の肖像写真。すでに老境にあった若尾は、風貌から荒々しさが影を潜め、「貴族院のおばあさん」と言われていたという。同写真帳には若尾や伊藤博文など46名の肖像写真(一部欠落あり)が掲載されている。
若尾逸平肖像写真(「貴族院多額納税長者議員写真帖」より 当館蔵)
甲府停車場開通式
明治36年(1903)6月
当館蔵(甲州文庫)


明治36年6月11日の中央線甲府開業を祝賀する様子を描いたもの。画面右半分に大きく描かれた緑門の上部にある「甲」の字は、実際は「工(鉄道建設にあたった鉄道作業局の紋章)」で、「祝開通」の文字は初代甲府市長を務め、鉄道会議員として中央線の現在のルート決定に関わった若尾逸平が筆を揮った。
甲府停車場開通式(当館蔵)
若尾逸平銅像ミニチュア
明治末〜大正時代
当館蔵


甲府市愛宕山に若尾の米寿記念に建てられた寿像(写真小川一眞、原型河村嘉祥、鋳造漆原新七 『若尾逸平』より。現存せず。南アルプス市に再建銅像が所在。)と同様のミニチュア。像からも小柄な老人であること、右足を踏み出すポーズから、溢れ出る行動力が想起される。明治40年(1907)の銅像建設時、あるいは大正時代の若尾公園の造営時の記念品であろうか。
若尾逸平銅像ミニチュア(当館蔵)
若尾逸平一代図屏風
大正時代
南アルプス市立美術館蔵


中澤年章による作品で、若尾の生い立ちから最晩年までの波乱万丈の足跡を、20の場面に抜き出して描いている。
若尾逸平一代図屏風(南アルプス市立美術館蔵)
内藤文治良著『若尾逸平』
大正3年(1914)
個人蔵

若尾逸平の没後刊行された伝記。著者の内藤は若尾家主宰の山梨県志編纂会の会長を務めている。序文は内閣総理大臣伯爵大隈重信(第2次政権時代)と青淵老人(渋沢栄一)の2名が務めている。
内藤文治良著『若尾逸平』(個人蔵)
 


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