山梨県立博物館 かいじあむ
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お知らせ

 今回の新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行を機に、一躍脚光を浴びた「ヨゲンノトリ」。それは、疫病に苦しめられた甲斐国の人々が救いを求めた結果現れた、不思議な存在でした。ここでは、「ヨゲンノトリ」を中心に、疫病の流行と人々の対応についてご紹介していきます。

※このコーナーの画像は、私的利用の範囲に限り、どなたでもご自由にご利用いただけます。
※報道・出版を含む画像の商用利用にあたっては、所定の手続きが必要です。必ず事前に当館までお問い合わせください。また県内の事業者に限り、「暴瀉病流行日記」と「ヨゲンノトリ」記載部分について、当館が所有する画像の使用料を免除しています。ただし、ご利用の際には、必ず事前に申請書をご提出ください。 詳しくはこちらをご覧ください。
※当館からの画像の提供を必要とせず、オリジナルのイラストなどに翻案して利用される場合は、手続きは必要ありません。

■このコーナーについて
 「ヨゲンノトリ」への注目は、新型コロナウイルスに対するみなさんの不安の裏返しなのかもしれません。未知なる病との接触は、歴史的に何度も起こってきたことです。得体のしれない病気、特に伝染病の驚異に対して、過去の甲斐国の人々はどのように考え、行動したのでしょうか。館蔵資料のなかから、人々の病との向き合い方をご紹介していきます。
「ヨゲンノトリ」について
「暴瀉病流行日記」について
「退散せよ!」疫病神にあてた手紙
「伝染病」の発見! 橋本伯寿『断毒論』
サギにはご注意! 怪しい僧侶あらわる
今後も引き続き、館蔵品のなかから病との関係を示すものをご紹介していきます。お楽しみに!

現在、ヨゲンノトリグッズを収集しております。また、ヨゲンノトリの絵を募集しております。ご協力よろしくお願いします。
ヨゲンノトリのグッズ収集について
ヨゲンノトリの絵を描こうについて

ヨゲンノトリのぬり絵を公開しております。
「ヨゲンノトリのぬり絵」

また、「ヨゲンノトリ」ペーパークラフトのデータをご提供いただきましたので、ぜひおうちでデータをダウンロードして製作してみてください!
「ヨゲンノトリペーパークラフトを作ろう」

■「ヨゲンノトリ」について

「暴瀉病流行日記」部分(当館蔵、頼生文庫。クリックすると大きな画像が出ます)
 市川村(いちがわむら、旧八幡村、現山梨市)の名主(なぬし)、喜左衛門(きざえもん)が記した「暴瀉病流行日記(ぼうしゃびょうりゅうこうにっき)」の8月初頭の記事に、頭が2つある不思議な鳥の絵が描かれています。そこにつけられている説明は、以下の通りです。
 如図なる烏、去年十二月、加賀国白山ニあらわれ出て、申て云、今午年八・九月の比、世の人九分通死ル難有、依テ我等か姿ヲ朝夕共ニ仰、信心者ハかならず其難の(が)るべしと云々
(現代語訳:図のような烏が、去年の12月に加賀国(現在の石川県)に現れて言うことには、「来年の8月・9月のころ、世の中の人が9割方死ぬという難が起こる。それについて、我らの姿を朝夕に仰ぎ、信心するものは必ずその難を逃れることができるであろう」。)
 是熊野七社大権現御神武の烏ニ候旨申伝、今年八・九月至テ人多死ル事、神辺不思議之御つけ成
(現代語訳:これは熊野七社大権現のすぐれた武徳をあらわす烏であると言われている。今年の8月・9月に至り、多くの人が死んだ。まさしく神の力、不思議なお告げである。)
 ※釈文を一部修正しました(4月26日)
 これ以外に、この不思議な鳥についての情報は日記には書かれていません。これ以上のことはわからないのです。「加賀国白山」と書かれていますが、恐らくこれは当時の人々が、不思議なことが起きそうな霊地としてその名を借りたもので、実際に白山にこうした霊獣が現れたわけではないのでしょう。「ヨゲンノトリ」という名前も、当館で付けたものです。
 4月3日に当館のTwitterでご紹介して以来、大きな反響をいただいています「ヨゲンノトリ」。かわいいイラストやおもしろいマンガを描いてくださる方もあり、大変ありがたく思っています。ここのところ、タイムラインに朝夕現れていますので、それを眺めるみなさんも、きっとこの災難から逃れることができるでしょう(うがい・手洗いをお忘れなく)。
■「暴瀉病流行日記」について

「暴瀉病流行日記」表紙(当館蔵、頼生文庫。クリックすると大きな画像が出ます)
 上にも記した通り、「暴瀉病流行日記」は、市川村の名主、喜左衛門の日記です。安政5(1858)年、長崎で発生したコレラが、7月には江戸に到達し、同月後半、甲斐国でも感染が拡大していきました。「暴瀉病流行日記」によって、このコレラの甲斐国における流行状況を知ることができるのです。
 7月末、江戸でのコレラの流行を知りつつ、村の用事で甲府の役所に赴いていた喜左衛門は、甲府でも多くの人々が毎日亡くなっていく様子を目にして、驚きとともに書き残しています。またこの7月には水害でも多くの人が亡くなり、喜左衛門はその対応にも追われていました。
 8月初頭、喜左衛門が聞いた噂に現れたのが「ヨゲンノトリ」でした。この時、甲府でのコレラはさらに猛威をふるい、1日に30〜40人もの人が亡くなるようになったとあります。甲府の善光寺をはじめとする寺社では、病魔退散を祈る祈祷や祭礼が盛んに行われました。
 8月16日ころから、喜左衛門は村で昼夜の念仏を行います。このころには、農民も商人も、すべての人が仕事を行わず、ひたすら念仏を唱える日々が続いたとあります。喜左衛門は大山石尊や三峰山、大嶽山に垢離をささげ、村の人々の無事を祈りました。
 8月24日、村では「年替」として、家々に松を飾り、人々はまるで正月が来たかのように振る舞いました。しかし病はおさまらず、今度は病を狐のせいであるとして、油揚げと赤飯を森に供えています。
 9月に入ると、流行はやや収束したようです。同月26日の記事では、今回の流行病で甲府では683人の死者が出たとまとめられています。
 この「暴瀉病流行日記」は、『山梨市史 史料編 近世』(山梨市、2004年)の428頁に、171号文書として全文が翻刻されています。
「退散せよ!」疫病神に宛てた手紙
 江戸時代、当時の甲斐国内でも、何度も流行病が発生していました。今のように医学的な知識が発達していなかった当時、「暴瀉病流行日記」にもあったように、人々は神仏にすがり、祈りをささげることで、その難を逃れようとしました。
 疫病神との書状のやりとりも、そうした祈りの一環でした。地域によっては、疫病神(疫神)に謝罪をさせた詫び証文が残っていることもありますが、甲斐国ではそうした事例は少なく、むしろ代官などが疫病神に対して退散を命じる「疫神差紙(えきじんさしがみ)」と呼ばれる資料がよくみられます。そのなかから、いくつかをご紹介します。

疫神退散につき差紙(当館蔵、甲州文庫。クリックすると大きな画像が出ます)
普天之下、率土之浜、無不有聖
王之民、汝疫神、謹而速ニ可去、不去者、
奏牛頭天王、以
王兵可征罰者也
 甲府
(割印) 安政五年午八月 御役所(印)

                 疫神
(現代語訳:全ての世界をあまねくおおう天の下、地の続く果てまで、聖王の民でないものはいない。汝疫病神は謹んで速やかに去りなさい。もし去らないのであれば、牛頭天王に申し上げて、天の軍勢によって征伐するものである。)
 安政5(1858)年8月に甲府代官が疫神に対して発給した文書です。甲府を中心に甲府代官の管轄地域全体にお触れとして伝達されました。「暴瀉病流行日記」にも、喜左衛門が甲府で見たお触書として、同じ内容が確認できます。宛先の名前をより小さく、より下部に記すというのは、相手を見下すための作法でした。

疫神退散につき差紙(当館蔵、甲州文庫。クリックすると大きな画像が出ます)

其方儀、恐をも不顧、
御料所ニ立入、民家を
為悩候段、不届之至りニ候、
早々可立去者也
 大貫次右衛門
  谷村
(割印) 寅十一月十日 御役所(印)

               疫病かミ
(現代語訳:その方が、恐れを顧みず、幕府の直轄地に入り込み、民衆を悩ませていることは不届きの至りである。早々に立ち去りなさい。)

 天保元(1830)年11月に谷村代官が疫病神に対して発給した文書です。谷村代官の管轄地域である都留郡一帯に伝達されたものと考えられます。こうした命令書を、人々は町の高札場に掲げたり、家々の戸口に貼ったり、病人の枕元で読み上げたりして、疫病神の退散を祈ったのでした。

疫神退散につき差紙(当館蔵、甲州文庫。クリックすると大きな画像が出ます)
 文久元(1861)年4月に市川代官が疫神に対して発給した文書です。すでにご紹介した甲府代官のものとほぼ同文ですので、釈文は省略します。江戸時代、牛頭天王は疫病除けの神さまとして広く信仰されていました。京都の祇園社の祭神としても知られており、山梨県内にもいくつか牛頭天王社・天王社が存在します。
「伝染病」の発見! 橋本伯寿『断毒論』
 

橋本伯寿『断毒論』(当館蔵、甲州文庫。クリックすると大きな画像が出ます)
 『断毒論(だんどくろん)』の著者橋本伯寿(はしもとはくじゅ)は、市川大門村(現市川三郷町)の医者です。医者の家に生まれた伯寿は、はじめ漢方医学を学び、その後長崎に出て吉雄耕牛(よしおこうぎゅう)や志筑忠雄(しづきただお)など、当時一流の蘭学者に師事して西洋医学を学び、故郷に戻って開業しています。
 医者として長崎に遊学した経験もあってか、伯寿は、疱瘡(ほうそう)や麻疹(はしか)などの病気が、特定の地域では発生しないという事実に気づきました。そこから、これらの病気が人から人に広がる伝染病であることを論理的に推定し、そうした病気にならないためには、体に病気が入ってくるのを防ぎ、さらに病気の広まっていない地域に人々を隔離することが大切だと考えたのです。文化7(1810)年、伯寿は、その内容を『断毒論』という本にまとめました。
 当時、人々は生まれながらにして病気のもととなる胎毒(たいどく)を持っており、それが気候などの変化に反応して病を起こす、という考え方が一般的でした(だからこそ、伝染病に苦しむ人の枕元で代官からの手紙を読み上げることができたのです)。伯寿の『断毒論』は、現在の私たちが考えるような伝染病の存在を、日本で最初に指摘した画期的な書籍でした。
 伯寿は続けて、内容をよりわかりやすくした『国字(こくじ)断毒論』、『翻訳(ほんやく)断毒論』を刊行しますが、広く受け入れられることはありませんでした。伯寿の説は、明治時代に西洋の近代医学がもたらされて、初めて評価されることになったのです。
サギにご注意! 怪しい僧侶あらわる

怪しい僧侶につき差上申一札之事(当館蔵、甲州文庫。クリックすると大きな画像が出ます)

※資料の破損で文字が読めない箇所は「□」で示しています。
 合字の「より」はひらがなで表しています。
      差上申一札之事
一、今般□□部組新左衛門、母長病ニ付、為祈祷
 者、藤井村遠条坊外僧一人罷越し、専祈祷
 致居候所、怪敷ト見受候間、役所より双方立合、態々
 見届候処、怪敷者ニ無相違故、難捨置、御役所様江
 御出訴仕候□、御役所より右祈祷者組中江番
 被仰付、承知奉畏候、且丈左衛門、新左衛門方江
 向祈祷者追放候由勧之、右体之義、御役所江
 もれ、御調預、既ニ御役所様江御差出しニ相成候所、
 左候而者、私身分如何様成行候茂難斗り候ニ付、
 左之名前之もの江縋り、御詫申上候所、厚御勘弁
 ヲ以、御聞済被下成候、難有仕合ニ奉存候、然上者、私
 身分・名目引退り、表名目之義者倅丈右衛門江
 引譲り候上者、万事何事ニ不限り立合申間敷候、
 依之一同連印差上申所如件
     弘化三年
        午四月十一日
            当人
             丈左衛門(印)
            組合
             八郎右衛門
            同
             新左衛門(印)
            同
             伝兵衛(印)
            親類
             甚兵衛(印)

    御名主中
 ※釈文を一部修正しました(5月23日)

 弘化3(1846)年4月の古文書です。現代語訳を兼ねて説明を加えます。
 ある村に住んでいた新左衛門(しんざえもん)のお母さんは、長いこと病に苦しんでいました。そこへ、藤井村(現甲州市)の遠条坊(えんじょうぼう、あるいはおんじょうぼう)という僧侶ともう1人の僧侶がやってきて、病気を治すために祈祷をします。
 しかし、それがどう見ても怪しかったため、村人たちは代官所へ届け出ました。代官所から役人がやってきて、いろいろ見分をしたところ、間違いなく怪しい者(きちんとした資格や実績もなく病気の治療にあたっている者)であるということがわかりました。村としては、怪しい者をそのまま捨ておくこともできないので、代官所に訴えたところ、代官所は村人が交代で怪しい者を見張っておくように命じました。
 ただ、ずっと番をし続けることは、村にとっては大きな負担です。そこで、村役人の丈左衛門(じょうざえもん)は、怪しい者たちをこっそり逃がしてはどうかと提案し、おそらく実際に逃がしてしまいます。もしそのことが代官所に知られてしまうと、丈左衛門はきびしく処罰されてしまうでしょう。そこで丈左衛門は、同じ村役人の八郎右衛門たちを仲介者として、代官所に謝罪をします。代官所は丈左衛門を許す代わりに隠居を命じ、息子の丈右衛門(じょううえもん)が村役人の役目を引き継ぐことになったのでした。
 「怪敷者ニ無相違(あやしきものにそういなし)」とはっきり書かれるくらい、誰がどうみても怪しかった2人の僧侶。それでも、新左衛門はわらにもすがる思いで母親の病気の治療を頼んだのでしょう。
 普通であれば簡単に見破れる嘘でも、心が動揺する非常時には騙されてしまうものです。新型コロナウイルス感染症に関連する詐欺のニュースも、ちらほら耳に入るようになりました。皆様もくれぐれもご用心ください。
情報掲載日:令和2年4月10日(4月26日更新)

■問い合わせ先

山梨県立博物館
〒406−0801 笛吹市御坂町成田1501−1
電話055−261−2631 FAX055−261−2632
 
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