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第14回展示紹介人物

渡辺青洲の顔写真と言葉


渡辺 青洲


プロフィール 年表 エピソード

・プロフィール
【人物の氏名】

渡辺 青洲
わたなべ せいしゅう
Watanabe Seisyu

【生没年】
天保11年(1840)生まれ 明治44年(1911)死去

【出身地】
甲斐国巨摩郡嶋上条村(甲斐市)〈峡中地域〉

【パネルの言葉を残した背景】

渡辺が収集した「青洲文庫」の目録で述べた文庫収集の趣旨。養父の代から集められた渡辺の「青洲文庫」約10万冊は、東京大学の貴重な古典籍資料として保存されている。

【人物の解説】
甲斐国巨摩郡嶋上条村(のち松島村、敷島町、現在の甲斐市)の小田切家に生まれ、最初の名を五三郎といったが、市川大門の渡辺家の養子となり信(まこと)と改名。府県会規則に基づく最初の県会議員となったほか、生糸改会社や第十国立銀行、農産社といった山梨県の政治経済に関わる要職を歴任。栗原信近が設立した市川紡績場の経営を引き受け、紡績業の発展にも尽力した。詩文や書にすぐれ、養父寿の代から和漢の書物を収集した。これらの文庫は渡辺の号「青洲」をとって「青洲文庫」と呼ばれ、関東大震災被災後の東京帝国大学(東京大学)に譲渡され、震災で多くの書籍を失った帝大にとって、貴重な古典籍資料となった。


・年表

年代 出来事
天保11年
(1840)
甲斐国巨摩郡嶋上条村(現在の甲斐市)の小田切家に生れる(五三郎と名乗る)
万延元年
(1860)

渡辺家の婿となり、名を信と改名

慶応4年
(1868)

渡辺家が東海道副総督柳原前光の宿泊所となる

明治3年
(1870)

郷学「日新館」を開校
跡継ぎとなる沢次郎が誕生

明治4年
(1871)
家督を相続(1868年の柳原前光の宿泊時とも言われる)
明治5年
(1872)
市川大門村の戸長となる
明治8年
(1875)

桃林橋を架橋
養父寿死去

明治12年
(1879)
府県会規則による最初の県会議員となる
明治19年
(1886)
市川紡績場の経営を引き受ける(渡辺紡績所として経営する)
明治22年
(1889)

市川大門村の初代村長に就任

明治27年
(1894)

「覊路日志」を記す
『桃廼家集』(養父寿の歌集)を出版

明治29年
(1896)
沢次郎が富岡敬明五女本子と結婚
明治33年
(1900)
青洲文庫の蔵を建設する(明治18年に建物を建設という記載もある)
明治39年
(1906)
『青洲文庫古板書目』を刊行
明治40年
(1907)

大水害により桃林橋流失
大水害復旧県民大会にて座長を務める

この頃 堤防改修工事の実現へ尽力(没後、「青洲堤」と称される)
明治44年
(1911)
逝去
大正13年
(1924)
「青洲文庫」が東京帝国大学図書館に譲渡される
   


・エピソード1
【郷土の発展に尽くした文人 渡辺青洲】

渡辺青洲は、八代郡市川大門村(現在の市川三郷町)の豪農・紙問屋渡辺家の養子となり、県会議員や市川大門村長を歴任するなど、この地域の政治的リーダーを務める。その業績は、栗原信近による経営が行き詰った市川紡績所を引き受け、その経営によって地域産業の発展に努め、学校の設立や桃林橋の架橋、明治40年の大水害の復旧工事の実現に尽力するなど、その社会的な業績は枚挙にいとまがない。
こうした政治家としての活躍の一方で、現在でも「青洲」の名が語られる、もうひとつの不朽の業績が「青洲文庫」の収集である。「青洲文庫」は青洲の養父寿の代から、子の沢次郎に至る、渡辺家三代が収集した和漢の書籍の一大コレクションである。養父寿は和歌や国学を学び、古典籍の収集を進めていた。養子となった青洲は、詩文や書にすぐれた文人で、養父のこうした傾向を受け継ぎ、古書の収集を更に進めていった。
これらの書物は、渡辺家のなかに建設された土蔵造りの文庫内に収められ、明治39年(1906)に目録である『青洲文庫古板書目』が刊行された。『青洲文庫古板書目』の自序で渡辺は、文庫の公開と、目録を作るに至った経緯を以下のように記している。

【青洲文庫古板本目録自序(部分)】
「若きころより、古物を愛する癖ありて、古書画、骨董等の心に適へるものを愛玩して、鬱を散じ心を養ふを常とせり、ことに古書を愛して、なりはひのために、西に東に旅する毎に何くれと求め来れるもの。積みて数万巻に及へり(中略)ひそかに省れば、古人が心血を灑ぎて著せるものを、おのれ独り愛玩して、終には、そがなかの多くを、蠧魚(とぎょ)の住家となさんは、著者に対しても罪いと深きわざなり、故に世のおのれと志を同しうし、趣味を共にする人々に、其の楽しひを頒たんとて、過ぐる年より文庫を公開せるに、訪ひくる人々いと多きがなかに、目録をとせちに望む人少なからず、因りてまづ慶長前後より、天保迄の書物のみをえりて、爰(ここ)に此の目録を作りぬ」

【青洲文庫古板本目録自序(現代語訳)】
 「若いころから古い物が好きで、古い書画や骨董などのなかで気に入ったものを大切にし、気持ちを切り替え豊かな気分にしていました。なかでも古い本が好きで、仕事で西や東に旅するたびにいろいろと購入してきたものです。これが積み重なって数万冊になりました。(中略)内緒で振り返ってみれば、昔の人々が力を振り絞って書いた書物を、自分ひとりで大事にして、最終的にそれらの書物の多くを虫に食わせてしまうのは、昔の本の著者にも罪深いことであります。そのため、世の中の自分と同じ志向や趣味を持つ人々と、古い本を見る楽しさを分かち合おうとして、先年本のコレクションを公開したところ、訪問する人々が多く、そのなかに目録を切実に求める人が多くいました。そのため、まず慶長時代(1596〜1615)から天保時代(1830〜1844)の間の本を選んで、この目録を作ったわけです。」

そして、自らが「青洲文庫」を収集した目的としてこの自序で記しているのが、「先人の言葉」である、「これたゞに書物を愛するのみにあらず、古物を保護して古人が尊き志を空しくせざらんとの心より出でつるなり」である。
自ら書画を得意とする文人で、古書を愛した渡辺によって収集された「青洲文庫」は、渡辺の没後、大正13年(1924)に東京帝国大学(現在の東京大学)に譲渡される。帝大は大正12年の関東大震災で多くの蔵書を失っており、渡辺の「青洲文庫」は貴重な古典籍資料として、現在に至るまで研究や教育に役立てられ、渡辺の「青洲文庫」設立の意志が全うされ続けているのである。

伊藤博文揮毫の「青洲文庫」扁額(東京大学総合図書館蔵)
伊藤博文揮毫の「青洲文庫」扁額 東京大学総合図書館蔵

『青洲文庫古板書目』 山梨県立博物館蔵
『青洲文庫古板書目』 山梨県立博物館蔵

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