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第15回展示紹介人物

富岡敬明の顔写真と言葉



富岡 敬明


プロフィール 年表 エピソード1 エピソード2 エピソード3 エピソード4

・プロフィール
【人物の氏名】

富岡 敬明
とみおか けいめい
Tomioka Keimei

【生没年】
文政5年(1822)生まれ 明治42年(1909)死去

【出身地】
肥前国小城郡(佐賀県小城市)〈その他〉

【パネルの言葉を残した背景】
自著『雙松山房詩史』所収「敬明自伝」の末に記された一文。原文には“百出”と“屡”の間に伊万里(いまり)・山梨・名東・熊本県での「事変」が記されており、激動の明治初期の地方統治を誠実かつ剛毅に乗り切ってきた、富岡の感慨が感じられる。

【人物の解説】
幕末の小城藩士で、山梨県参事や熊本県令を務めた政治家であり、晩年には山梨県の漢詩界をリードした漢詩人。山梨県参事時代には、土肥実匡県令・藤村紫朗権令をサポートし、大小切騒動の収拾や日野春開拓などの勧業政策を推進した。熊本県令時代には西南戦争の勃発による西郷軍の攻撃に遭い、約2ヶ月の籠城戦を耐え抜く。熊本県知事退任後に山梨県に移住し、西山梨郡里垣村(現在の甲府市)に居を構え晩年を過ごした。明治33年(1900)に男爵を授けられる。


・年表

年代 出来事
文政5年
(1822)
佐賀藩の支藩小城藩の神代家に生まれる
文政10年
(1827)
富岡家の養子となる
天保14年
(1843)
小城藩主鍋島直亮に仕える
安政5年
(1858)
藩主から刀(陸奥守忠吉銘 不動丸)を拝領
元治元年
(1864)
藩主鍋島直亮が死去
小城騒動により投獄
慶応2年
(1866)
死刑判決を受けるが、本藩藩主鍋島斉正(直正・閑叟)により助命される
明治2年
(1869)
恩赦を受け、佐賀藩に仕える
明治4年
(1871)
伊万里県(現在の佐賀県)権参事に就任
明治5年
(1872)
山梨県権参事に就任
明治6年
(1873)
山梨県参事に昇任
明治8年
(1875)
名東県(現在の徳島県)権令に就任
明治9年
(1876)
熊本県権令に就任
明治10年
(1877)
西南戦争が起こり、熊本城に籠城
熊本城籠城の功績により勲四等旭日小綬章と年金180円を賜る
明治13年
(1880)
内務省に貿易港建設を申請
明治14年
(1881)
オランダ人技師ムルデルとともに港湾建設適地を調査
明治16年
(1883)
3月県会で三角築港予算約30万円の承認を得る(10月に内務省の許可)
明治17年
(1884)
三角港築港事業に着手
本籍を山梨県に移す
熊本県令に昇任
明治19年
(1886)
地方官制の改正により熊本県知事となる
明治20年
(1887)
三角(西)港開港
明治22年
(1889)
日野春開拓地の住民が集落名を「富岡」と命名
明治23年
(1890)
日野春村に開拓神社が建立される
明治24年
(1891)
熊本県知事を退任
貴族院議員(勅選)に就任
山梨県西山梨郡里垣村(現在の甲府市)に転居
明治25年
(1892)
貴族院議員を辞任
明治27年
(1894)
三角港に富岡敬明君頌徳碑が建てられる
明治32年
(1899)
「雙松山房詩史」を刊行
九州鉄道三角線開通(のち国有鉄道、現在JR三角線)
明治33年
(1900)
男爵に叙される
正三位に叙される
明治42年
(1909)
逝去
   


・エピソード1
【小城藩騒動で終身禁固に】

富岡敬明は、佐賀鍋島藩の支藩であった小城藩藩士の家に生まれ、同藩藩士の富岡家に養子入りし、次期藩主鍋島直亮の御側役から藩士としてのキャリアをスタートさせる。
だがその直亮がわずか25歳で病没すると、その混乱に乗じて御蔵方大田蔵人が藩政を牛耳ろうとする動きを見せる。これを憂慮した富岡らは、藩政の刷新を計画するが、そのなかで同志が太田の暗殺を試みて未遂に終わってしまう。このグループのトップであった富岡は三年間にも及ぶ取り調べのうえ死罪を言い渡されるが、本藩藩主の鍋島斉正(直正・閑叟)によって寛恕され、一命は許されたものの終身禁固となり、富岡家は取り潰されてしまう。
以後、恩赦を受ける明治2年(1869)までの間、未決囚時代を含めておよそ5年間、不遇をかこつこととなってしまう。折しも明治維新にかけての動乱の時代、西国の諸藩藩士が活躍していたなか、富岡は働き盛りで分別盛りの40代を牢中で過ごすことになってしまった。のちの富岡の山梨・熊本における50〜60代の頃の活躍や行動力を思うと、あまりにもったいないブランクになってしまったと言えよう。


小城藩騒動について記した「丹心秘録」(個人蔵)
小城藩騒動について記した「丹心秘録」 個人蔵


・エピソード2
【大小切騒動に見舞われた土肥県令との山梨県政】

罪を許された富岡は、佐賀本藩・伊万里県に勤めたのちに、明治5年(1872)3月に山梨県権参事(現在の副知事)として山梨県庁に着任する。そして着任して早々の8月に県庁を震撼させた大小切騒動に直面することになる。
大小切騒動は、江戸時代以来甲斐国の国中地域(山梨・巨摩・八代郡)で適用されていた大小切税法の廃止に対して反対する農民による民衆運動である。大小切税法は、米などの収穫物で納税するのではなく、「石代納」と呼ばれる貨幣によって納税する方法であり、大小切の米価換算基準が比較的農民が有利であったため、廃止が検討されるたびに反対運動が起きていた。
この年、地租改正を実施して全国統一の税制を導入したいと考えている明治政府が、遂に同税法の廃止を決定したことによって、大小切税法を使っていた地域のうち、東郡と呼ばれる甲府盆地東部97ヶ村の住民6千人が立ち上がり(人数は諸説あり)、甲府の山梨県庁へと迫ったのであった。
富岡は土肥実匡県令とともに対応にあたり、善光寺で説得あたったものの、結局群衆は甲府まで達してしまい、土肥県令は大小切税法廃止撤回の文書を群衆に与えて、その場をしのぐこととなる。
数日後に東京と静岡から軍隊が到着し、土肥県令はその武力を背景にして廃止撤回の文書を取り上げ、騒動の首謀者を処罰するに至る。首謀者である小屋敷村(甲州市)の小澤留兵衛と松本村(笛吹市)の島田富十郎は死罪、隼村(山梨市)の倉田利作は準流罪(のち死罪)となったほか、数多くの人々が罪を問われ、大小切廃止撤回に沸いた山梨県民の意気は、大きく消沈することとなった。
この大小切騒動の収拾にあたった富岡は、代表者を死罪とした事態処理を残念に思い続けていたとされる。明治22年(1889)の帝国憲法発布における大赦に伴い、同25年、騒動による犠牲となった小澤留兵衛島田富十郎の慰霊碑を恵林寺(甲州市)に建立することになった際には、自ら碑の篆額を施している。
また、一説によれば、佐賀県出身である富岡が熊本県令退任後に山梨を永住の地に選んだのは、この大小切騒動の処置を気にかけての事であったとされている。壮年時代、小城藩騒動で、政道の正しさを求めて投獄された経験のある富岡は、農民の暮らしを憂いて騒動の代表となり、果てに刑死した騒動の代表者たちには、格別な思いがあったことであろう。


大小切騒動の犠牲者を慰霊するために築かれた「小沢島田弐氏之碑」(恵林寺 甲州市)
大小切騒動の犠牲者を慰霊するために築かれた「小沢島田弐氏之碑」(恵林寺 甲州市)


・エピソード3
【殖産興業に尽くした藤村県令との山梨県政】

大小切騒動の責任を問われて更迭された土肥県令に代わって、新たに権令に着任したのは熊本出身の藤村紫朗であった(明治7年に県令、19年に県知事となる)。
藤村は富岡よりも23歳も年下の若干28歳という若さで、着任早々に「物産富殖の告諭」を発して、県内の産業振興プランを公表した。そのなかで富岡は巨摩郡北部の日野原(現在の日野春)の開拓を提言し、政府の補助金によって実行に移されることとなり、もともと飼料用の草を取るだけの原野に桑・茶・葡萄などの植付が行われた。
富岡は明治8年(1875)に山梨県を離任するまで、退庁後に馬を飛ばして日野原に駆け付け、開拓作業の督励にあたったとされている。こうした開拓の功労に対して、明治22年(1889)に開拓地住民は集落名を「富岡」と命名し、その功績を現在にも伝えている。


北杜市長坂町富岡の開拓神社にある「日(野)原碑」
北杜市長坂町富岡の開拓神社にある「日(野)原碑」

・エピソード4
【西南戦争に際会した熊本県令時代】

明治8年(1875)、富岡は山梨県参事から名東県(現在の愛媛県)権令に転じ、翌年に熊本県権令となった。熊本県着任2年目の明治10年(1877)2月に勃発したのが西南戦争である。
西郷隆盛率いる不平士族1万数千が鹿児島から熊本へ迫り、当時、熊本県庁も熊本鎮台も熊本城内にあり、富岡や熊本鎮台の谷干城司令官は城内に籠城した。熊本城は西郷軍の攻撃前に原因不明の火災で天守を焼失していたが(鎮台によってあらかじめ焼かれたという説もあり)、政府からの征討軍が到着するまで数に劣る熊本鎮台と富岡はよく持ちこたえた。50日あまりの籠城戦を経て西郷軍の囲みが突破され、熊本城は解放された。
富岡はこの熊本城籠城戦について、「籠城日誌」として記録を残している。近代日本最大の内乱という困難から始まった富岡の熊本県政は、戦乱からの復興や旧制第五高等学校(設立時は高等中学校、現在の熊本大学)の誘致、前任地山梨県から技術者を招いた製糸業の振興などの施策を進めていった。
その施策のなかで特筆されるのが、福井の三国、宮城の野蒜と並び、「明治三大築港」と称された三角港の整備である。西南戦争の被害からの復興や、九州産の石炭の搬出、国防上の理由などから建設が認められ、その建設適地が調査された。調査には、「お雇い外国人」として来日して、日本の港湾や河川改良を担当していた、オランダ人技師ローウェンホルスト・ムルデルがあたった。この調査で、当初候補地とされた百貫石地区(現在の熊本市西部)は遠浅で大型船舶の入港が困難と判断され、ムルデルによって「天然の良港」と評価されたのは、宇土半島の西端にある三角の地であった。
明治17年(1884)に富岡は三角港着工に漕ぎつけ、日野春開拓の時と同様、退庁後、毎日のように督励に赴き、現場の作業員をねぎらったとされる。明治20年(1887)8月に三角港は開港し、以来、日本の重要な港湾のひとつとして、現在も使用されている。三角港は、のちに整備された東港に機能の中心が移り、富岡が整備した西港の港湾施設は当時のまま現存し(明治期の港湾施設が完全な形で現存しているのは全国で三角西港のみ)、国重要文化財に指定されている。その三角西港には、開港の功労者として、富岡の像と顕彰碑が建てられており、今でも富岡像は三角の港を見つめている。


三角(西)港を見渡す富岡敬明像 宇城市教育委員会提供
三角(西)港を見渡す富岡敬明像 宇城市教育委員会提供


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