山梨近代人物館ロゴ

第14回展示紹介人物

近藤浩一路の顔写真と言葉

近藤 浩一路

プロフィール 年表 エピソード1 エピソード2

・プロフィール
【人物の氏名】

近藤 浩一路
こんどう こういちろ
Kondo Kouichiro

【生没年】
明治17年(1884)生まれ 昭和37年(1962)死去

【出身地】
山梨県南巨摩郡睦合村(南部町)〈峡南地域〉

【パネルの言葉を残した背景】
山梨や日本の風景を、水墨で彩り豊かに描いた近藤の言葉。近藤は自らの創作態度について、「表現せんとする純粋な心を尤も率直、自由に表す」ものとしている。

【人物の解説】
南部宿の本陣である近藤家の長男として生れる。父麟次郎、母はち、祖父は山梨県会初代議長の近藤喜則和田英作に師事し、当初は油絵を志す。東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)西洋画科を卒業し、新聞社に入り挿絵や漫画を描く。次第に水墨画へ傾倒し、墨の彩りが織りなす独特の画風が確立する。風景画を得意とし、自然の美しさに対する感動を直接に表現する直観創作主義を志した。その作品は山梨県立美術館と南部町立美術館に数多く収蔵されており、南部町立美術館では近藤の作品とともにゆかりの品々もあわせて見ることができる。


・年表

年代 出来事
明治17年
(1884)
南巨摩郡睦合村(現在の南部町)の近藤家の長男として生まれる(本名は浩)
明治20年
(1887)
父病気療養のため母の実家がある静岡県庵原郡岩淵村(静岡県富士市)に移住
明治21年
(1888)
父死去、以後祖父の喜則の支援を受けて養育される
明治29年
(1896)
富士川小学校を卒業
明治35年
(1902)
韮山中学校(現在の静岡県立韮山高等学校)を卒業し上京
明治37年
(1904)
洋画家和田英作に入門
明治38年
(1905)
東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)西洋画科に入学
明治40年
(1907)

白馬会第11回展に9点の作品を出品
水墨画を手掛けるようになる

明治43年
(1910)

東京美術学校西洋学科卒業、同級生には藤田嗣治岡本一平
文部省美術展(文展)に「京橋」が入選

明治44年
(1911)

翌年にかけ藤田嗣治と展覧会や制作活動をともにする

大正2年
(1913)

静岡県、ついで京都市に転居、京都女子美術学校の洋画教員に就任

大正3年
(1914)

京都女子美術学校の生徒白井清子と結婚
南巨摩郡万沢村、富河村、睦合村(いずれも南部町)に寄寓する

大正4年
(1915)

読売新聞社に漫画や挿絵を描く漫画記者として入社(東京に転居か)
時事新聞社に移り、菊池寛芥川龍之介らと交友
岡本一平らと東京漫画会を結成

大正8年
(1919)

再興第6回日本美術院展覧会(院展)に「朝の日」「夕の日」「霧」が初入選

大正9年
(1920)
再興第7回院展に「山」が入選、日本美術院院友に推挙される
大正10年
(1921)

東海道、ついで東北地方を旅行
再興第8回院展に「十二橋」「八郎潟」など入選、日本美術院同人に推挙

大正11年
(1922)

半年間パリに滞在、藤田嗣治と旧交をあたため、その後ドイツ・スペイン・イタリア・イギリスを訪問し帰国
中国・朝鮮を訪問

大正12年
(1923)

関東大震災で自宅全焼し、静岡、ついで京都へ転居

大正14年
(1925)
九里四郎津田青楓岸田劉生らと三条会を結成、大阪三越で展覧会開催
昭和2年
(1927)
志賀直哉から「君は画の虫だね」と言われ「画蟲斎」と号するようになる
昭和5年
(1930)
俳誌『ホトトギス』の表紙を担当
昭和6年
(1931)

フランスにわたり、パリで個展開催、評論家アンドレ・マルローと親交を持つ

昭和10年
(1935)

山本有三の小説「真実一路」(『主婦之友』連載)の挿絵を描く
日本橋三越・日本橋高島屋で個展開催

昭和11年
(1936)

日本美術院を脱退
望月春江らと北海道旅行
東京府北多摩郡久留米村(現在の東京都東久留米市)に転居し、自宅を「土筆居」と名付ける

昭和12年
(1937)

山梨美術協会創立会員となる
東京市四谷区南寺町(現在の東京都新宿区)に転居
中国・朝鮮へ旅行

昭和13年
(1938)
自宅が火災に遭い、小石川区同心町(現在の東京都文京区)に寓居、のち移転
昭和15年
(1940)
東京市豊島区巣鴨(現在の東京都豊島区)に転居
昭和20年
(1945)

静岡県金谷町、山梨県勝沼町、山梨県山中湖村などに疎開
東京大空襲で自宅焼失
東京都大森区馬込西(現在の東京都大田区)に転居

昭和22年
(1947)

東京三越で個展開催
東京都豊島区巣鴨に転居

昭和24年
(1949)
墨心会を石井鶴三中川一政小杉放庵と結成
昭和27年
(1952)
義弟白井晟一設計のアトリエが東京都豊島区巣鴨に完成
昭和28年
(1953)
日本橋三越「水墨画三十周年回顧展」開催
昭和34年
(1959)
日展会員となる
昭和35年
(1960)
この年より夏は御殿場で過ごす
昭和36年
(1961)
第4回新日展に「朝露を踏んで」を出品
昭和37年
(1962)
逝去
   


・エピソード1
【近藤浩一路をめぐる人々】

近藤浩一路の祖父は、初代山梨県会議長である近藤喜則で、殖産社の設立や三椏栽培にあたって産業育成にあたる一方で、私塾蒙軒学舎を経営して地域の子弟の教育や、C・S・イビーを招いて山梨県におけるキリスト教の普及のきっかけを作った。 父の麟次郎は新島襄の薫陶を受け、蒙軒学舎で英語教師を務めたが、病弱なために近藤が幼少のうちに死去した。妻の清子夫人とは近藤が京都の女子美術学校教員を務めていた際に知り合い、15歳の年齢差と周囲の反対を押し切って結婚した。清子夫人は、自らの美術への志は封印し、画業以外のことに頓着がない近藤を支えたという。清子夫人の弟は建築家として名高い白井晟一で、近藤は義父の死去後は白井晟一の面倒を見ており、ドイツ留学後に建築家となった白井は、近藤の邸宅・アトリエの設計にあたっている。


・エピソード2
【五彩をあらわす墨の妙技―近藤浩一路の創作活動―】

近藤浩一路は、その画業を洋画からはじめ、新聞社の漫画記者としての作品制作を経て、水墨画で画壇での地位を確かにする。近藤の水墨画は、墨の濃淡で五彩の輝きを放つ独特の画法をもって、画壇に新たな風を吹き込んだ。
その水墨についての考え方を、近藤は「墨に五彩ありという根本義は所謂の外形的色彩感ではなく、言外の尊い意義に立脚しているのである。即ち墨は他の画の具に比べると最も自由なる素質を有しているという事は、やがて作家の表現に間髪を容れず、直ちに作家の表現の自由を意味し、物質的の墨色は忽ち精神的の色彩と化し、其処には色彩を超越した芸術の真髄、表現の表現のみが具現される。」と述べている。やや難しい言葉ながら、自然を愛し、絵を描く対象である自然に対する感動を純粋に直接表現することを創作の根本においた近藤にとって、水墨画は最も理想的な表現スタイルだったのかもしれない。
こうした近藤の創作活動と生涯については、南部町立美術館の常設展示や、山梨県立美術館などで開催された企画展の図録『光の水墨画 近藤浩一路の全貌』(平成18年)に詳しい。


上に戻る