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第13回展示紹介人物

杉浦譲の顔写真と言葉



杉浦 譲


プロフィール 年表 エピソード1 エピソード2 エピソード3

・プロフィール
【人物の氏名】

杉浦 譲
すぎうら ゆずる
Sugiura Yuzuru

【生没年】
天保6年(1835)生まれ 明治10年(1877)死去

【出身地】
甲斐国甲府二十人町(甲府市)

【パネルの言葉を残した背景】
渡英することになった前島密に、郵便事業の立ち上げを引き継いだ杉浦が述べた言葉。杉浦は初代駅逓正として、わが国の郵便事業をスタートさせ、富岡製糸場の整備に尽力するなど、日本の通信や産業の近代化に大きく貢献した。

【人物の解説】
日本の近代郵便事業をスタートさせた人物。甲府勤番士杉浦七郎右衛門の長男として生まれる。幼名は昌次郎でのち愛蔵、明治維新後に譲と改める。徽典館(山梨大学の前身)に学び、のちに助教授にもなる。その後、江戸にでて幕府の外国奉行の支配下となり、文久3年(1863)に池田筑後守長発を正使とする渡仏使節に参加する。慶応3年(1867)にもパリ万国博覧会へ向かう徳川昭武の随員として再び渡欧している。大政奉還による徳川家の静岡移封につき従うが、明治3年(1870)に明治政府に出仕。駅逓権正、駅逓正となり、海外出張中の前島密に代わって日本の郵便制度をスタートさせている。明治5年(1872)創刊の東京日日新聞(現在の毎日新聞)の創業にも関与している。その後も、内務省地理局長などを歴任するが、激務のなか病を得て急逝。

・年表

年代 出来事
天保6年
(1835)

甲斐国甲府二十人町で甲府勤番の杉浦七郎衛門良尚の長男として生まれる

天保12年
(1841)
私塾で学ぶ
弘化2年
(1845)
徽典館に入学
嘉永5年
(1852)
自宅にて塾を開く
嘉永6年
(1853)
徽典館を卒業し、同館教授方手伝見習となる
安政2年
(1855)
徽典館教授方手伝となる
安政4年
(1857)
田辺太一が徽典館学頭に着任(翌年まで)
万延元年
(1860)
甲府町方御用掛加勤見習となる
文久元年
(1861)

江戸に移り外国奉行支配書物御用出役となる

文久3年
(1863)

池田筑後守の横浜鎖港談判使節団に随行しフランスへ渡る(翌年帰国)

元治元年
(1864)
御徒目付への異動と京都出張が命ぜられる(就任前に外国奉行へ復帰)
慶応元年
(1865)
外国奉行支配調役並となる
  清国上海に出張
慶応3年
(1867)
徳川昭武に従いフランスのパリ万国博覧会を訪れる
  渋沢栄一と同行する
明治元年
(1868)

外国奉行支配組頭となる

 

徳川家の駿河移封に従い静岡へ移り、学問所教授などを務める

明治3年
(1870)
明治政府に出仕し、民部省改正掛に入る
  郵便制度立ち上げを担っていた前島密がイギリスへ出張
 

駅逓権正に就任

  地理権正を兼任
  富岡製糸場建設のために出張
 

サンフランシスコ総領事として赴任

明治4年
(1871)

渋沢栄一と共著の「航西日記」(慶応3年の渡仏についての記録)を出版

  郵便制度を開始する
  初代駅逓正に就任
  民部省廃止となり大蔵省に属し大蔵少丞に就任
  太政官に移り権少内史に就任
明治5年
(1872)
博覧会御用掛を兼務し、ウィーン万国博覧会関係の事務を取り扱う
 

創業に関わった東京日日新聞(現在の毎日新聞)創刊

  父・七郎右衛門吉尚死去
明治6年
(1873)
地租改正掛、条約改正御用掛に就任
明治7年
(1874)
内務省に移り、内務大丞兼戸籍頭・地理頭に就任
明治8年
(1875)
地方官会議事務取調御用掛を兼務
明治9年
(1876)
授産局御用掛に就任
明治10年
(1877)

内務省大書記官・地理局長に就任

  中部地域の4県官林巡視に出張
 

逝去、太政官から祭粢料として500円が遺族に贈られる

   


・エピソード1
【甲府勤番からヨーロッパへ】

甲府勤番の家に生まれた杉浦譲は、私塾で学んだのちに徽典館に入学する。徽典館では非常に優秀な成績を修め、文久元年(1861)には江戸に移り、幕府の外国奉行支配書物御用出役となり、開明的な官僚としてのキャリアをスタートさせている。
文久3年(1863)に、幕府はフランス人士官殺害事件の謝罪と、安政の5か国条約以来、外国に開かれていた横浜を再び鎖す交渉を行うため、池田筑後守長発を正使とする使節をフランスに派遣することとし、杉浦もその一員に選ばれた。この文久3年12月末の出発から4年7月の帰国までの池田使節団としての渡仏について、杉浦は「奉使日記」と題して克明に記録を残している。
この外交団の目的とされた横浜の鎖港は、フランス側の反対により、成果を挙げられずに終わり、関係者は処罰される。しかし、正使の池田をはじめ、田辺太一(外国奉行支配組頭・徽典館で杉浦の上役となっている)や杉浦らが海外の文物に触れたことは、彼らがその後の幕府や明治政府の近代化施策を支えていく人材になっていくうえで、大きな契機となっている。
この使節団については、はじめてエジプトのピラミッドとスフィンクスを見学した日本人であるということで有名である。使節団はインド洋からアラビア海、紅海、地中海を経由してフランスのマルセイユにいたるルートでフランスに渡ったが、当時はスエズ運河がまだ完成していなかったので、陸路で地中海の港町であるアレクサンドリアへと向かっており、その途中カイロに滞在している。
杉浦は「奉使日記」の文久4年2月21日の項に「寺外より望めハ市府一目了然にて、有名の巨恊l首の壮観も遥に見えり(文字は原文のママ)」とカイロ市街から見るピラミッド(巨怐jと人首(スフィンクス)の光景を記している。同28日には池田正使以下で見学に訪れ、杉浦は「巨恷O介あり、其形三角にて(大中小あり)何れも石築(石質御影石に似たり)大さ一隅六十丈、高も又同しといふ」とし、ピラミッドの材質や大きさ(1丈は約3メートル)について、緻密な考察を記している。
ピラミッドには現地人の案内で、登ったり中に入ったりした様子を記している。スフィンクスについては、「又三介恆Oに岩を彫りて作りし巨人の首あり、大さ四丈計もあるへく、肩より以下は砂中に埋没して見へす、是古昔何等の意を寄せしや測り難し」との感想を記している。
その後も慶応元年(1865)に清国上海に長州の軍船購入の暗躍に関する調査へ、慶応3年に徳川昭武に従いパリ万国博覧会へと出張し、幕府の外交官僚として数々の足跡を残している。そして、杉浦がこうした海外経験によって得た知見は、西洋の文物を導入していく近代日本の建設に携わっていくなかで、大変重要な経験となり、またこの洋行をともにした田辺太一渋沢栄一との交流も、その後の杉浦の官界で活躍していくうえでの重要な財産となっていくのである。

フランスで撮影した洋装の杉浦の写真 山梨県立博物館蔵
フランスで撮影した洋装の杉浦の写真 山梨県立博物館蔵


・エピソード2
【日本の郵便制度をスタートさせる】
幕府の崩壊後、徳川宗家は静岡へと移り、杉浦も徳川宗家を継いだ徳川家達に従い、静岡藩の学問所の教授などを務めていた。明治3年(1870)に明治政府に出仕することとなり、前島密とともに郵便事業の準備にとりかかる。
前島は越後国(現在の新潟県)出身の旧幕臣(もとは豪農の家に生まれ、前島家に養子に入る)の官僚で、租税権正と駅逓権正を兼任していた。
前島は明治3年(1870)6月 に、太政官へ官営郵便事業の創設を建議し採択されたものの、その直後にイギリスへの出張が命ぜられる。前島の後を引き継ぎ、官営郵便事業を実施に漕ぎつけたのが杉浦である。杉浦は駅逓権正に就任し、前島不在中の官営郵便事業の創設準備を進める責任者となり、制度設計やインフラ整備、ポストや切手などの各種意匠の制定、従来の「郵便」業者である飛脚たちへの対応などの実務にあたった。
そうした杉浦の総指揮と奮闘により、明治4年(1871)3月1日、我が国の官営郵便事業が東京・大阪間で開始される。定期的かつ一定料金で、その後日本全国をカバーしていく郵便事業の創設は、わが国の通信に革命をもたらし、その後の日本の近代化に大きく貢献していくことになる。杉浦は郵便事業開始の直後に駅逓正に昇進し、明治国家建設のための様々な役職を歴任していくことになる。

甲府市の遊亀公園に建っている「初代駅逓正杉浦譲顕彰碑」
甲府市の遊亀公園に建っている「初代駅逓正杉浦譲顕彰碑」


・エピソード3
【富岡製糸場の開設に尽力】
杉浦は郵便事業の立ち上げに奔走するなかで、官営富岡製糸場(国宝・重要文化財・群馬県富岡市にあり、平成26年世界文化遺産に登録)の設立にも関わっている。
杉浦は、製糸場建設にあたったフランス人技師のブリューナやフランス公使館のデュ・ブスケとの折衝にあたったほか、明治3年(1870)閏(うるう)10月7日には民部省の建設委員に選ばれ(杉浦、渋沢栄一ら5名)、現地を視察して製糸場の動力源となる石炭を産する近隣の炭鉱の状況などの所見を報告している。
富岡製糸場はブリューナの指揮のもと、明治5年(1872)10月に完成し、今後日本が目指すべき模範的な器械製糸場として操業を開始する。ほかに近代的な工場などほぼ皆無だった明治初頭に、西洋の技術による巨大な製糸場が実現できたのは、フランスに2度わたっている杉浦など、西洋の技術や産業を目の当たりにし、近代化を進めていく諸政策にその経験を活かすことが出来る官僚が存在していたことが、その大きな理由として挙げられる。

協力者であり友人でもあった渋沢栄一 個人蔵
協力者であり友人でもあった渋沢栄一 個人蔵


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