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第13回展示紹介人物

早川徳次の顔写真と言葉



早川 徳次


プロフィール 年表 エピソード1 エピソード2 エピソード3 エピソード4

・プロフィール
【人物の氏名】

早川 徳次
はやかわ のりつぐ
Hayakawa Noritsugu

【生没年】
明治14年(1881)生まれ 昭和17年(1942)死去

【出身地】
山梨県東八代郡御代咲村(笛吹市)〈峡東地域〉

【パネルの言葉を残した背景】
早川が地下鉄の発展を予見して述べたとされる言葉。早川は稀有な独創性と行動力で、不可能と言われた東京への地下鉄敷設を実現した。志半ばでこの世を去った早川が見ていた未来は、今現実のものとなっている。

【人物の解説】
東京地下鉄道(現在の東京地下鉄)を創立し、日本最初の地下鉄を実現した「地下鉄の父」。御代咲村(笛吹市一宮町)の村長の家に生まれる。後藤新平根津嘉一郎の知遇を得たことから、鉄道事業との縁を得る。訪欧した際に、英国ロンドンで目撃した地下鉄に衝撃を受け、地下鉄は東京のような大都市の交通に不可欠であることを見抜き、根津らの支援のもと、東京地下鉄道を創立する。関東大震災などのアクシデントを乗り越え、昭和2年(1927)、日本最初の地下鉄である浅草・上野間の開業を実現した。

・年表

年代 出来事
明治14年
(1881)

東八代郡御代咲村(現在の笛吹市一宮町)に生まれる

明治28年
(1895)
県立甲府中学校(現在の甲府第一高校)に入学
明治33年
(1900)
県立甲府中学校を卒業
この頃 旧制第六高等学校(現在の岡山大学)に入学も病気のため中退
明治37年
(1904)
早稲田大学高等予科に入学
明治38年
(1905)
早稲田大学法科本科に入学
この頃 後藤新平の知遇を得る
明治41年
(1908)
早稲田大学を卒業
この頃

南満州鉄道に入社し、のち鉄道院に入る

明治44年
(1911)

根津嘉一郎の知遇を得る

  佐野鉄道(現在の東武鉄道佐野線)の経営に携わる
明治45年
(1912)
高野登山鉄道(現在の南海電鉄高野線)の経営に携わる(支配人に就任)
大正3年
(1914)

欧州視察に赴き、英国ロンドンで地下鉄の発達ぶりを目撃する

大正5年
(1916)
帰国
大正6年
(1917)
東京軽便地下鉄道を設立し、浅草・品川間の地下鉄道敷設免許を申請
大正8年
(1919)

地下鉄道敷設免許を取得

大正9年
(1920)

東京軽便地下鉄道を東京地下鉄道株式会社と改称し、自身は常務取締役に就任

大正12年
(1923)
関東大震災がおこる
大正14年
(1925)
地下鉄工事に着手する
昭和2年
(1927)

日本最初の地下鉄浅草・上野間(現在の銀座線の一部)開通

昭和5年
(1930)
上野・万世橋(仮)間開通
昭和6年
(1931)
万世橋(仮)・神田間開通
昭和7年
(1932)

神田・三越前間、三越前・京橋間開通

昭和9年
(1934)

京橋・銀座間、銀座・新橋間開通

昭和10年
(1935)
東京合同タクシー株式会社の社長に就任
  東京乗合自動車株式会社の社長に就任
  大東京遊覧自動車株式会社の社長に就任
昭和12年
(1937)
京浜地下鉄道株式会社を設立し専務取締役に就任
昭和13年
(1938)
東京地下鉄道と東京乗合自動車が合併
昭和14年
(1939)

東京高速鉄道(五島慶太ら経営)が新橋まで完成し、直通運転を始める

昭和15年
(1940)
東京地下鉄道の社長に就任
  東京高速鉄道との直通運転問題で争いが起こり、地下鉄経営から退く
昭和16年
(1941)
帝都高速度交通営団(営団地下鉄、現在の東京地下鉄株式会社)発足
昭和17年
(1942)
逝去
   


・エピソード1
【後藤新平と根津嘉一郎との出会い】

早川徳次が地下鉄と出会い、「地下鉄の父」となるきっかけとなった存在として、後藤新平根津嘉一郎という日本鉄道史を彩るふたりの人物が挙げられる。
後藤新平は岩手県の水沢出身で、台湾総督府の民政長官を務めた官僚で、早川と出会ったころにポーツマス条約で得た鉄道権益を運営する南満州鉄道(満鉄)の初代総裁に就任していた。早川は後藤に私淑しており、自身も満鉄に入社し、後藤の逓信大臣(鉄道院総裁)就任にあわせて、また早川自身も鉄道院に移り、大卒エリートでありながら自ら望んで新橋駅の改札や手荷物係となり、鉄道経営の現場経験を積んでいった。この鉄道院時代の早川に、後藤は次のような短歌を贈っている。
ねざめよき 事こそなさめ 世の人の よしとあしとは いふにまかせて
(寝覚め良き、事こそ成さめ、世の人の 良しと悪しとは、言うに任せて)
「大風呂敷」とも揶揄され、台湾統治や関東大震災後の東京復興といった大プロジェクトのリーダーとして活躍した後藤らしい言葉である。その後、困難な地下鉄事業を実現していく早川のなかに、この短歌に込められた不屈の精神や、官僚として優れたプランナーであった後藤の存在が、大きな影響をもたらしていたのではないだろうか。
この鉄道院に勤めたことで、同郷の鉄道経営者でのちに「鉄道王」との異名を受けることになる根津嘉一郎の知遇を得ることになる。根津は早川に傘下で赤字経営であった佐野鉄道(現在の東武鉄道佐野線)と高野登山鉄道(現在の南海電鉄高野線)の立て直しを任せ、早川は見事に両社の黒字化に成功する。こうして早川は後藤と根津との出会いによって、鉄道経営の経営者と現場と、双方の経験を得ることができた。そしてふたりから得た薫陶は、早川がその後事業家として粘り強く計画を進めていくうえで、大きな力になっていった。

後藤新平 個人蔵
後藤新平 個人蔵

後藤新平から与えられた歌
後藤新平から与えられた歌


・エピソード2
【日本初の地下鉄へのあゆみ】
鉄道経営で一定の成功を得た早川は、先進地である欧米の交通事情の視察を決意し、大正3年(1914)にイギリスに渡る。首都ロンドンで目撃した都市交通の発達ぶりと地下鉄は、早川に衝撃をもたらした。ロンドンは当時「太陽の沈まない国」として繁栄していた大英帝国の首都であった。いずれ東京も都市として発展が進んでいけば、地上交通だけでは限界があり、地下鉄を東京に敷設することは不可欠だと早川は考えたのである。
帰国後、東京での地下鉄敷設の準備を開始した早川が最初に取り組んだのが、東京市内の交通量調査である。有名な逸話として、銀座などの街角に自ら立ち、豆粒をひと粒ずつ数えることで交通量を計ったとされる。こうして、最初に建設する路線を、現在の銀座線の浅草・上野・銀座・新橋間と決定したのである。
軟弱だといわれていた東京の地質や湧水量の調査などにも取り組み、収益や技術面での問題がないことを明らかにしたうえで、地下鉄会社の設立に向けての賛同者や資金調達、敷設免許取得に向けての官庁との折衝に臨んだ。財界の超大物である渋沢栄一や郷党の先輩でもある根津嘉一郎の支援もあり、大正8年(1919)に監督官庁の鉄道院から敷設免許が交付され、翌年に東京地下鉄道株式会社として、日本最初の地下鉄建設に向けてスタートを切った。
建設が始まるまでは、第一次大戦後の空前の不況や、外資からの協力を取り付けた直後に発生した関東大震災など、数々の困難が発生したが、大正14年(1925)9月、日本最初の地下鉄となる浅草・上野間の工事がようやく開始された。
地中を掘り進める現在の地下鉄やトンネルの工事とは違い、当時は開削工法という、一度地上から掘り下げてトンネル構造物を埋めるという方法で進められ、難工事の末、昭和2年(1927)12月に日本最初の地下鉄である浅草・上野間2.2km(現在の銀座線)が完成した。

早川のメモが書き入れられたロンドンの地下鉄マップ 個人蔵
早川のメモが書き入れられたロンドンの地下鉄マップ 個人蔵

早川自身が「歓喜のクライマックス」だったという起工式 個人蔵
早川自身が「歓喜のクライマックス」だったという起工式 個人蔵

開業当初の地下鉄を描いたもの 個人蔵
開業当初の地下鉄を描いたもの 個人蔵


・エピソード3
【渋谷でなく、品川にいくはずだった銀座線】
日本で初めての地下鉄には多くの人々が詰めかけた。地上では蒸気機関車がもうもうと煙を上げて走っているなか、全鋼製で自動ドアを備えた電車が地下のトンネルを走り、日本で初めて自動列車停止装置(ATS)を備えるなど、画期的な鉄道路線としての開通だった。改札口には、硬貨を投入すると入場できる日本最初の自動改札を備え、数年後には小林一三のターミナルデパートを参考に、主要駅に「地下鉄ストアー」をオープンさせて、経営の多角化と利用客サービスを図るなど、首都東京の新たな交通機関の登場にふさわしい新機軸のあふれたスタートだった。
路線も順次延長され、昭和9年(1934)に当初の目標だった新橋までの延伸工事が完成する。苦心が実り、順調に進んでいたかに見えた早川の地下鉄だったが、雲行きの怪しさを増していた世情とともに、大きな困難が早川を襲う。後発の鉄道事業者である五島慶太らの東京高速鉄道が提示してきた乗り入れ問題である。浅草から上野・神田・日本橋を経由して、新橋までの路線を作った早川は、ここから品川に伸ばして京浜急行との連絡や直通を考えていた。東京高速鉄道は、渋谷から路線を伸ばし、新橋で東京地下鉄道と接続し、直通運転を行いたいと考えていた。
早川はこれに反発したが、五島らは株式の買収による事実上の「乗っ取り」を画策してきた。これには早川とともに東京地下鉄道の社員も反発したが、早川の協力者であった根津嘉一郎もこの年早々にこの世を去っており、監督官庁の裁定によって、両者とも新たに設立される帝都高速度交通営団(営団地下鉄、現在の東京地下鉄株式会社)に吸収されることとなった。五島の政略と国策の一環とも言えるこの過程で、「地下鉄の父」である早川は苦心して立ち上げ育てあげた地下鉄経営からの引退が求められ、昭和15年(1940)に社長の座から退くことになる。生涯を賭けた地下鉄から、早川はにわかに離れることを余儀なくされたが、早川自身が【先人の言葉】で述べているように、彼の蒔いた種は大きな実を結び、地下鉄は東京だけでも総延長約300kmにもおよび、現代日本の人々や社会に欠かせないものとなっている。そして、早川徳次は彼を慕う社員たちの募金によって胸像が制作され、現在でも銀座駅のコンコースにて、現在の地下鉄と利用客の往来を見つめている。

開業当初(昭和9年)ごろの銀座 個人蔵
開業当初(昭和9年)ごろの銀座 個人蔵

開業当初(昭和9年)ごろの銀座 個人蔵
現在も銀座駅にある「社長早川徳次像」 (平成26年撮影)


・エピソード4
【幻の青年道場】
早川は東京地下鉄道の社長を退いたおよそ2年後、故郷の東八代郡浅間村(現在の笛吹市一宮町)で亡くなった。亡くなる前に、早川は郷里の子弟の教育のための「青年道場」を開く計画を進めていた。東京地下鉄道時代から、早川は「凡そ如何なる世にも、仕事をするに大切なるものは人である。一も人、二も人、三も人であると思ふ。」といい、人材育成の重要視しており、神奈川県の逗子に社員の研修施設「聖智寮」を建設した。
教育だけでなく、早川は福利厚生にも目を向けており、社員スポーツ大会や出征社員の家族のケアにも気を配っていたようである。若手社員の結婚式にも数多く出席していたようで、早川家には数々の結婚式の記念写真だけを綴じたアルバムも残されている。「聖智寮」もモダンで快適な施設であったが、「青年道場」も甲府中学校の後輩である内藤多仲(ないとうたちゅう)の協力で、東京地下鉄道在職中から立派な施設の準備が進められていた。早川の急逝によって、「青年道場」は実現することはなかったが、その建築の一部を生家跡にみることができる。
早川の逝去にあたっては、甲府中学校と早稲田大学でほぼ同級生だった石橋湛山(のち首相)が弔辞を、河西豊太郎が早川を悼む詩を寄せている。

《弔辞と同趣旨の石橋湛山「早川徳次を弔う」(『東洋経済新報』昭和17年12月19日号)部分》
早川徳次が卒然逝いた。十一月三十日此の報を受けた私は、事の意外に暫く言が出なかった。
私は彼と、つい一個月余前の十月十九日に会っている。而かも場所は、私の居る此の東洋経済新報社に於てであった。
其の夜は私共同じ頃(明治三十三年から三十八年)に甲府中学を卒業し又は卒業すべかりし有志が、予て組織せる橘会の秋季例会を催し、当時甲府中学の校長であった幣原坦博士を中心に、おそくまで語り合った。早川は、此の会合にいつも通りの元気の顔を見せ、皆と一緒に話に華を咲かせていたのである。それが俄に死んだと云うのだから驚かざるを得ない。
(中略)
勿論早川徳次無くも、誰れかがやがて地下鉄を敷いたであろう。併しそれはコロンブス出でずとも誰れかやがて米大陸を発見したであろうと云うのに等しい。米大陸の存する限り、コロンブスの名は亡びざると等しく、早川徳次の名は、我が国に地下鉄の走る限り残るであろう。晩年彼が地下鉄の経営から去った如きは、ここに問題でない。斯くて私は、少時からの彼の友人として、其の死を必ずしも悼まない。彼は人間一代として十分為すだけの事を為し遂げた幸福の男であったと思うからである。蓋し彼も亦斯く感じ、安らかに永遠の眠に就いたであろう。

《早川による「青年道場建設趣意書」》
現代教育ノ弊ハ智育ニ偏シテ人間ヲ作ルト云フコトヲ忘レテ居ルガノ感ガアリマス。人ヲ作ルニハ人ト人トガ接触シテ、其ノ人ノ全人格ガ指導サルル人ノ全霊ニ触レテ、被指導者ガ自覚シタ時ニ始メテ教育ノ効果ガ現ハレ、其人ガ真ノ人間トナリ得ルノデアリマス。維新ノ時松下村塾カラアノ様ナ偉人傑士ガ輩出シテ明治維新ノ聖業ニ翼賛シ奉リ得タノハ、実ニ松下村塾塾生ガ吉田松陰先生ノ偉大ナル人格ニ触レテ其ノ感化ヲ享ケタコトニアルト思ハレマス。
世間ニハ立派ナ書物ヤ修養ニ資スル書籍ハ汗牛充棟モ啻ナラザル程アリマス、然シ是等ノ書物ニヨツテ偉人傑士ガ生レタリト云フコトハ聞イタ事ガアリマセン。
寧ロ眼ニ一丁字ナキ慈母ノ愛ノ感化ニヨツテ有為ノ人物ガ生レ、真面目ノ寺子屋師匠ノ下カラ一代ノ傑物ガ現レタト云フ例証ハ沢山アリマス。是等ノ事例ニヨツテ見マシテモ、真ノ人間ヲ作ルニハ人格ト人格トガ触レ合ツテ、其ノ高潔ナル人格ガ指導セラルル人ノ血トナリ肉トナツタ其ノ時ニ始メテ国家有用ノ人材ガ生レ出デテ、職域奉公ノ実ヲ挙ゲ得ルモノダト思ハレマス。
私ハ在京四十年京浜間幾多ノ名士ニ知遇ヲ辱フシテ居リマスカラ、私ガ奔走スレバ是等名士ハ入峡シテ、此ノ道場デ青年ニ訓示ナリ、講演ナリ座談ナリヤツテ呉レマス。斯シテ諸名士ノ人格ヲ通シテ発セラルル其言質ハ青年ヲ教化スルコト偉大ナルモノガアルト思ハレマス。
猶ホ他ノ一面カラ考察スレバ、真ノ人間ヲ作ルニハ「行」ニヨツテ其ノ人ヲ錬成スルコトガ最モ必要デアルト思ハレマス、王陽明ガ知行合一ヲ説イタ如ク、知ルコトハ直ニ行フコトデナケレバナリマセン。否寧ロ、行フコトノ方ガ知ルコトヨリ先ニ立タネバナラヌカモ知レマセン。我国ノ教育ガ智識ノ啓発ニ偏シテ、之ガ行ノ上ニ顕現スルコトヲ怠ツタコトハ遺憾至極ニ存ジマス。依テ我ガ青年道場デハ、禅坊主ガ禅寺デ修行スル時ノ如ク、下駄ヲ脱グニモ、食事ヲスルニモ、風呂ニ入ルニモ、之ガ皆一ツノ修行トナリ、之ニ依テ青年ノ全人格ヲ建立シテ行クヤウニシタイト思ヒマス。換言スレバ青年ヲ頭ノ人トシテヨリモ腹ノ人トシテ錬成シテ行キタイト思ヒマス。夫レニハ腹ノ充分出来タ先生ガアレバソノ人ヲ指導者ニ招聘シテ青年子弟ノ訓育ニ当ツテ戴キ、且緩急アル時ハ国家社会ノ為メニ立派ニ御役ニ立ツヤウナ人間ヲ錬成シテ行キタイト思ヒマス。
斯様ナ考ヘカラ私ハ郷里御代咲村ニ青年道場ヲ建築シテ、此ノ事業ノ為メニ力ヲ尽シ、私ガ幼少ノ時カラ種々御世話ニナツタ郷里山梨県ノ為ニ些カナリトモ報恩、感謝ノ微衷ヲ致シタイト思ツテ居ルノデアリマス。
時恰モ皇紀二千六百年ノ祝典ニ際シ、私ガ多年交通事業ノ為メニ微力ヲ致シ、東京市ニ我国最初ノ地下鉄道ヲ敷設シタト云フコトガ、 天聴ニ達シ緑綬褒章ヲ賜リ草莽ノ微臣徳次ハ 天恩ノ普キニ感泣シテ居ルノデアリマス。此ノ身ニ余ル光栄ヲ記念シ又私ガ齢還暦ニ達シタ心祝ノ為メニ、郷里御代咲村ニ青年道場ヲ建設セントスルニ至ツタ次第デアリマス。

聖智寮竣工式か(中央は内藤多仲) 個人蔵
聖智寮竣工式か(中央は内藤多仲) 個人蔵

始球式?に臨む早川 個人蔵
始球式?に臨む早川 個人蔵


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