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第16回展示紹介人物

高野正誠の顔写真と言葉



高野 正誠


プロフィール 年表 エピソード

・プロフィール
【人物の氏名】

高野 正誠
たかの まさなり
Takano Masanari

【生没年】
嘉永5年(1852)生まれ 大正12年(1923)死去

【出身地】
甲斐国八代郡上岩崎村(甲州市)〈峡東地域〉

【パネルの言葉を残した背景】
葡萄栽培、葡萄酒醸造について記した自著『葡萄三説』での言葉。養蚕業をたとえとしながら、山梨での葡萄栽培の可能性を説いており、その後の山梨県の産業の変化を示唆するかのような言葉。

【人物の解説】
高野正誠は、八代郡上岩崎村(現在の甲州市勝沼町)の神官高野正吉の家に生まれる。明治10年(1877)に下岩崎村の土屋龍憲とともに、大日本山梨葡萄酒会社が派遣するワイン留学生に選ばれフランスに渡る。帰国後、山梨県の葡萄栽培、ワイン醸造の基礎作りに尽力し、明治23年(1890)に『葡萄三説』を著して、その普及に努めた。

・年表

年代 出来事
嘉永5年
(1852)
甲斐国八代郡上岩崎村(現在の甲州市勝沼町)に生まれる
明治10年
(1877)
大日本山梨葡萄酒会社設立
  土屋龍憲とともに前田正名(パリ万博事務官長)に従いフランスへ留学
  フランス・トロワ市にて、ブドウ栽培・ワイン醸造について学ぶ
明治12年
(1879)
帰国
明治14年
(1881)
第2回内国勧業博覧会に葡萄酒を出品(入賞)
明治19年
(1886)
大日本山梨葡萄酒会社解散
明治23年
(1890)
『葡萄三説』を刊行
大正12年
(1923)
逝去
   


・エピソード
【1年限りのワイン留学】

高野正誠土屋龍憲とともに経験した日本最初のワイン留学は、明治10年(1877)10月10日に横浜を出帆し、明治12年(1879)5月8日に帰国して同地を踏むまで、およそ1年半にわたるものだった。
ふたりは渡航するにあたって、送り出す大日本山梨葡萄酒会社と1年で修業を完了させる「盟約書」を取り交わし、後に山梨県知事となる薩摩(鹿児島県)出身の前田正名とともにフランス船タナイス号に乗船した(前田はパリ万国博覧会事務官長として赴任)。香港、セイロン、スエズ運河などを経由する1か月半の船旅を過ごした末にフランスに上陸、マルセイユからパリを経て、シャンパーニュ地方のトロワ市で、その修業生活が開始された。トロワ市での修業は1シーズンと少しという、大変時間が限られたものだったが、前田と縁のあった農学者かつ苗木商のシャルル・バルテの紹介で、ピエール・デュポンが指導にあたり、葡萄の剪定や挿し木、接ぎ木、収穫といった栽培法や醸造法を習得すべく、その実技の実践と理論の研究やスケッチに昼夜を分かたず勤しんだとされる(前田は先の渡仏でバルテらから葡萄の苗木を大量に買い付けて輸入しており、これらを内務省勧業寮三田育種場を通じて日本国内に配布し、葡萄栽培の普及を図っていた)。
帰国したふたりは、1年とされていた留学期限の延期を責められ、ワイン醸造も商業的に順調にはいかなかったが、高野は葡萄栽培とワイン醸造の先進地で学んだノウハウを、明治23年(1890)に『葡萄三説』として著し、山梨や日本のワイン産業の拡大やレベルアップに大きく貢献した。

葡萄やワインを楽しむ人々を描いた『葡萄三節』巻頭口絵の画像
葡萄やワインを楽しむ人々を描いた『葡萄三節』巻頭口絵


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